6 けふのせばのの 

        

A  テキスト解説

原本は大舘市
中央図書館所蔵

 

天明5年(1785年)8月から10月まで秋田・岩手を旅した菅江真澄の紀行文

この講座では真澄の花巻滞在中を中心に取り上げた。

 

菅江真澄

宝暦4年(1754年)三河国渥美郡(現在の愛知県東部)で生まれたと伝えられている、江戸時代後期の紀行家。
本名は白井英二、その後、秀超、知之、秀雄などど名乗り、文化7年(1810)頃から『菅江真澄』と改めている。文政12年(1829)7月19日、秋田県仙北地方で亡くなる。

 

主な作品

けふのせば布・岩手の山・かすむ駒形・はしわの若葉・小野のふるさと

えみしのさへき・えぞのてぶり

 

参考資料

 

南部叢書第六巻「真澄遊覧記」 解読文作成に当たりこの解読を参考にした

平凡社ライブラリー「菅江真澄遊覧記」現代文訳かつ要約した物

  

 

付記

即断は出来ないが今回テキストを読んでいて、筆者(真澄)は花巻周辺の記述に際し、「邦内郷村志」特に7,8巻を直接か間接的にか目を通したのではないかとおもわれた。南部叢書五所収の「邦内郷村志」解題によれば、この、7,8巻は「和賀稗貫郷村志」として松井道円が著したものと伝えられ、享保(1716・1735年)の奥書があるとの事なので、天明期に真澄が参考にしたとしても時系列的には矛盾しない。

 特に瀧田村(?森)、戸塚村(戸塚森)、成田村(対面堰)

もっとも、邦内郷村志記載の内容は当時は、周辺住民の周知の事実であるのかもしれない。

B   本文(「けふのせばのの」の一部)

磐井の郡、あるハ信夫乃郡にも、此の山のありいふハ「別路ハけふ (わかれ)

をかきりとみちのくのいはてしのふに沾る袖かな」と師氏 (ぬれる・藤原忠平の四男)

のなかめありけるより、しかいへるニや、そのむかし、岩木山に

安寿姫をまつり、此たけにハ、津志王丸をまつる、又いふ、岩

木ねハつし王のみたまをいはひ、此たけに、安寿女のみたまを

あかめまつれは、安寿山といはんをあやまれるなと、後の世乃人の

くさくさにいふに、心まとひぬ、まほなることやいかにしる人に とハまほし、

此あたりにたたら山といふなるは、「陸奥の吾田多良

真弓つる すけてひけは か人のわれを事なさん」と

よみけるところにとそあらめ、夕雰にこめて見やられす、    (きり)

 

 われもかく 心ひけはか あた〃らの真弓の紅葉 いかにそむらん

森崗に出たり、とみうと 軒をつらね、里ひろう にきは〃し、北上川の邊ニ (富人)

宿かりつ、舟橋あり、加美河のひろ瀬乃面ニ、舟をひし〃〃と

ならへて、行かふ人も、上弦の光ニあらはれたり

  ふなはしの数もしられて行かひのあらはれ渡る月の夕影

「九日、けふのいはひに、菊のふ〃みたるを折て、朝とく出たつ (まだひらかない)

 いさ今日乃例にぬれんと しら露もはらハて かさす菊の一枝

はたち斗も小舟を早瀬にうかへ、中州に柱立て、かなつな     (鉄綱)

を引たへつなき、板をしいて、うまも人もやすけにわたりぬ、

此はしめハ毛詩大明の篇に造舟為梁となんありけり、     (詩経の異称)

晋乃杜預といふ人、冨平津といへる水ひろきなかれニ、    (西晋の武将・学者)

舟をならへて浮橋としけるを、武帝觴をあけて、めてくつ  (さかずき・褒めちぎる)

かへり給ひしとなん、佐埜乃ふなはしとりはなしと、ふるき

言の葉ニいひわたり、あるは越の国ニありと乃ミ

 

きけと、いまたふみも見されハ、めつらしく、た〃すみ〃〃わたる、

このあたりの業ニは、なへてあまどころとて、黄精をむしただ

らかし、あるは膏のことにしてうるめり、いみしき薬也     (あぶら)

津軽町、上野、見前といふ処のあれは

 月花のたよりよからん泉郎のかま見るまへてふ名こ〃に在けり

やおら十日市町となんいふを過る、これより郡山といふ

大槻の観音と、人のたふとめるは、聖武のみかとのおき

奉り給ふといひ伝ふ、日詰といふ処あり、これなん

清衡の四男、樋瓜太郎俊衡入道の館の址ハ、

五郎沼のひんかし北ニ在といへは処の名にもいふならん、

路のかたはらの石ふみに、志賀理和気神社とかき、裏に

赤石明神とえりたり、しかりわけの神は、斯波郡ニひとつ   (ほりつける)

のかんかきといふは、此おほん神なれはまうて奉る、又祠を北上の (神垣)

河の涯近くひんかしにそむけて立るは、此みな底ニ、夜毎〃〃ニ

光る石あるをとりて、神トハまつりしとなん庵より

ほうしたち出て話る、櫻町といふ村あり

 春も又 ここニとハなん 山さくらまちて梢の紅葉をそ見る

西なる吾妻峯といふ麓ニ、志和乃稲荷といふ神あり、

いにしへの、鹿猟分の社とそ、此神の瑞籬を申奉りけめ、(しかりわけ?・みずかき

とをしゆる人ありき しかハあれと行みちしれされハととめつ

このおほん神や、倭日向建日向八網田命ニて

おましますときけは、よみて奉る、

八束穂ニ秋の田乃実やミのるらん こは鹿かりの神乃恵ニ

かくて細きなかれをたくな河とてわてれは、ゆうへニなりぬ、 (滝名川)

 行水や 海士のたく縄くり返す いとまも波にくる〃秋乃月 (楮縄 こうぞの縄)

くれて、石鳥谷といふ里ニ宿つきたたり

「十日、大瀬河といふニ、土橋かけたるを渡る、この流ハ、    (葛丸川のこと)

藤原朝臣盛方乃「ほともなくなかれ               (1178歿)

そ とまる逢瀬河かハるこ〃ろや ゐせきなるらん」となかめ   (堰)

給ひしは、これともハらいへり、八幡を過て、宮部を       (専ら)

くれは、花巻といふうまやあり、むかしや牧のありける

やらんと、とふニ、さハこたへす、むかしハ河岸ニ花多く

ありて、ちりうく頃、水ニうつまかれて、たゆたふより

いひし名と、こたふ、ここニ居る伊藤修といふくすし、けふハ止りてと

ひたニいへれハ、日たかう宿もとめたり、夕くれちかつくに

旅人ふたり、とふらひ、来るハ、五瀬の国より、国々めくるとて、 (伊勢)

檍正唯、岩波良清とて歌よみはいかいする人也

「十一日、けふも、人々とともニまとゐして、あかす 旅の思ひも忘れたり(円居)

「十二日、この人たち ことかたに、出行を名残、猶やらんかた

なう、いつこニてめくり逢んと契て、た〃はやといふ 袖を     (発たばや)

ひきて、此日斗はとて、おなし宿ニ暮たり

「十三日 けふハとて、ともニものしたるを、われ斗せめてとて

山田のひたニ止められて出た〃す、正唯ふておとりて

 めくり逢ふ月の例を かけておもひ、けふの別を夢いふな君    (ためし)

 とりか鳴 東の奥ハいととしく別れまたくそおもほゆるかも    (はなはだ)

といふ ふたくさの歌作てわれニ見せける、返し

 めくりあふ月のためしは おもへともけふの細布たち別うき 錦木はたてながらこそ

 別行 ちまたもつらし 鳥かなく東のおくをかなたこなたニ  朽ちにけれきょうの

              (わかれゆく)   ほそぬの胸あはじとや)〈後拾遺・恋一〉

いはなみよしきよ乃句ニ、

 見ととけよ 木々の錦乃 したしみつ、となん

ありけるに、「ひとりはらはん 露のやまみち、 と

つけて、里のしりまて、人々と友ニ送り出て、帰さニ、あふ

けは、早池峰とて、高きねニ、瀬織津比唐まつると聞は    (ひめ・早池峰神社)

ぬかつきぬ、其近き辺ニ、十握乃みやといふありて、そこニハ、  (とつか・戸塚)

日本武乃みことのみいくさひきゐ給ひしころの、みかりや

のあとといひつたふあり、この山より、射はなち給ひしかぶらの

ひ〃きに、みなをそりわななき、おかせるえみしら、名残

なふにけ しのきたりとか、其箭乃ととまりし          (や)

みねを的場山といふ、とかたるを聞つつ、修の家ニ至る       (?森・アズチもり)

くるれは、こよひの月見んと、人々も集ひ来るに、とにあふきて

 明らけき月のこよひの 初霜ニ手折わつらふ 庵のしらきく

「十七日、この二、三日は、風おこりて 日記もせす、ふしくらすニ

戌乃貝ふくころ、とに声たかふよハふは いかニときけは     (夜7から9時)

すハ火のこと也、とよめきさハくニ、はや ちかとなり

のやまてけふり立わたり、なにくれの調度とももてはこふに     (家まて)

ましりて、われもここらのふみともおいもち出て、あるし

をたすけぬるほとに、枕とりしあたりもみな火かかりて、

一ときのうちに、あまたのやは灰となりて、夜なんあ

けはてぬ、いみしきわさはいニあへりと、おしなへて

うれへなきさハきたり

「十八日、修 はやのしりに、ゐくは ところのよきやのあるニうつりて、(はやの尻)

われに しハ〃〃と かかるさハきを な見捨そ、いましハしありてと

 

やの人こそりていへは 止りぬ、遠きさかひより、こ〃にすみつ

きたる、老たる女、布前たれをし、頭はつつみニかくしたるか

来りて、あるしニ薬たまへ、あが家のやまうどや、いつか〃〃〃  (病人)

よからん、糸はねの一筋をなでねへし、つづれやつこも     (ボロ)

ささねへし、垣祢かいたま、猫 けた物がもくりありくニ    (ぬいつけない)

又おやこまきは やけたれは、此としいか〃くれんと      (一族)

うけてさりぬ、此物語き〃もしられねハ、いか〃そと居る

人ニとふニ、このあたりては、たた麻苧の糸をのみ、      (あさお)

糸はねといひ、引をなづるとはいへと、ことくニは、えしり

侍らしとかたはらより、こたふ、ふるきこと葉ニやあらん

とききつつ、戯れうた作る

 糸なでは 綴奴もさ〃すきて あれニ、あれたる垣ねかいたま

このかりやニ 日数へぬ、村谷守中といへる人 情ふかう、   (仮家)

うすき旅衣して夜寒の秋風いか〃しのきてんと

綿あつ〃〃と入たる衣くれたりける うれしさニ、「もの

たうひしひとニをくる」てふことを、もと末の上と下      (とらす)

とニおいて、六くさをつくる

 もみち葉の色こそ増れきのふけふ 時雨ニけりな峯ハいくたひ

 のち山路見しは物かハ語りあひ おもなれてこし里ハいくさと

 たち別れ行えもうしあすよりは 独たとらんしらぬ山路ニ    (憂し)

 うのかるるあさちかや原ふみしたき 野辺ニやからん草の枕を  (踏みにじる)

 ひたすらにかけてを通へ玉つさハ をたへの橋乃絶す久しく  (手紙 古川市

 しもも や〃おくの細路ふみ分て けなんおもひハ別とそしる  (消?)

「廿七日、くすし をさむのやを出たつニ、あるし

 

しら雲の 立へたたれる遠方を よそにのミ見て 恋や渡らん (とほつ方)

とよみてくれたりける、返し

 ふた〃ひと 契おきても白雲の よそに隔る身を いか〃せん

行〃 紅葉のおかしがりなんなといひて    守中

 草枕 うき旅かけて 故郷ニ 梔の衣きつ〃行らん      (くちなし)

かくなんありける、返し

 ふる里の つとニ見なまし唐錦 梔色そふ人の言乃葉    (みやげ話)

月見しこと、なわすれ給ひそとて       文英     (前沢・霊桃寺住?)

 草枕 むすふ旅ねの夢にても 見し夜の月の影 なわすれそ

と聞しし、返し

 友ニ見し 月の円居のわすれしな しのひてもかな空ニしのはん

ふた〃ひとて                 文英

 別ても心へたつな なかめやる 空ははるかの さかひなれとも

とそありけるに、返し

 わかれてハ ことこそたゆれ大空に 通ふ心はへたてさりけり

又おなし人〃の句ニ    あるし修を渓路といふ

 これよりや 夢のうきはし 時雨めり   渓路

 日うつりや かさしの笠ニ 女蘿もみち  買絲   (じょら さるおがせ)渓路門

 人遠し 撮折はきに あきのかぜ     守中

 笠めせは 君と秋との 余波かな     至岳   (なごり)   

 幾久ニ 名をこめてハ おしきわかれ哉  素綾

この人々送り出てみちの左に鳥屋崎の城といふこれなん

琵琶乃柵といひて、安陪頼時のつきそめ給ひしとかたり、(1057歿貞任の父)(築く)

又道のゆんてめてニとしふりたる槻と椋の生立る     (弓・左手 馬手)

 

を、筆塚とて、頼朝のむかはせ給ひしころほひより生ひ

立りし木ニてありつ なといふを

 治れる御世のしるしと毫塚ニかきつもりにし年そしられぬ    (ふで)

送り来つる人々は、豊沢川の橋をふみ過きて、こ〃ニ

扇堀とて、人ニふたたひ逢ん、あふきてふ名のよけれハ

このきしべよりみな帰りけり、十二町目といふ村中ニ

対面せきといへる、細きなかれあるより、稗貫、和賀と     (郷村志 成田村の項)

郡はへたつなと、処の人のをしへたり、成田村を過て、岩田    (岩渡堂 同右)

堂、二子、この二子ニ、あやしのあみたふちを、八幡といはいたり、 (八森八幡 同右)

飛馳森といふなるハ、天正十八年の春のころほろひたる       (一五九〇年)

和賀主馬乃かみと聞たりし城址なり、此主馬の君の

遠つおやハ多田薩摩守頼春の末也、頼春乃君ハ            (?)

伊藤入道祐親の女満幸の前のうめるころ祐親入道         (伊東祐親)

都より帰来て 此ちこを見て、こはたかぞ、男やあらんととへるに

まんかうの前のまま母きみ、見たまへ、此子ハ蛭か小島乃、

ニゐ島もりか、うませたる、おほん孫ニてさふらふなり、

瓜なんふたつニはやしたらんかことニ、能似たりと、にくさけに

足もてかいなて、そなたにおもむけてけり、すけちか、なに

頼朝か子なるか、平氏への聞、又つみんとのたねといひ、    (罪人)

たすくへうもあらしと、はらくろにの〃しり、水深き淵に

捨へし、とく〃〃といへれは、すへなう、うしなひ奉りしとこたへて、(すべ)

斉藤五斉藤六と、曽我太郎祐信等とこころ

をあはして、このをさなき君を、人しらすたすけまゐらせ、

はぐ〃みたてて、頼朝、あめがしたをまつりこち給ふの    (古地・所領の回復)

 

ときをまちえて、君信濃の国、善光寺にまうて給ふ

をりしも、みちすから、このわか君のうへを申いつれは、頼朝公    (申出れば)

末なう めてよろこひ給ひて、梶原をめして、いつこの国にか、     (限りなく)

ニ三万石のところや、あらん、とらせよとのたまふに、みちのく

ならて、かきたる城もあらさるよしをけいすれは、それにと  (斯くてある・そのような)

のたまひしかハ、住給ひしと、なんいひ傳ふ、斉藤五、斉六は

のちに、小原、八重樫と名のりて、此末今も南部ニいと

多しといふ、其城の址ニ、夏と秋とふた〃ひなる栗の樹も   (二子の二度成栗)

侍ると村長か語るニ、日影かたふき、早池峰をむかふ

ニ風いとさむく、見る〃〃

 冬ちかみあらしのかぜも はやちねの山のあなたや時雨そめけん

黒沢尻といふうまやにつきて、昆といふ何かしかやに泊る

「廿八日 あるしにいさなはれて、阿部のふる舘のあと

見にとて行ぬ、加志といふ処ニ、黒沢四郎政任の

ありしいにしへを偲ぶ、北上河を辺たてて、国見山のいとよく

見やられたり、国見てふ名ハところところニ聞たり、神武の帝、(古事記)

八十梟を国見丘ニ、撃給ふのとき、「かん風のいせの海  (やそたける)

の大石ニ、やいはひもとへる、した〃みの、となかめ

給ひしことともありけるを おもひ出、はた「やまとニハ (万葉集 巻壱2 舒明天皇)

むらやまありと、とりよろふ、あまのかく山 のほりたち

国見をすれは、とすしたり、里人のいへらく、「音に聞  (誦)

くにみの山の霍公鳥 否背の渡くり返しなく、    (かっこう)(いなせ)

又、いふ、「みちのくの門岡山の時鳥 稲瀬のわたり

かけて鳴也、 此ふたくさ、いつれをまこといひもさためん

 

歌はれいの西行ニたぐふ、むかし和賀郡江刺郡の境を

あらそふこと、とし久しかりける、その頃、白狐、にぎてを  (幣束)

くはへて、駒か嶽ニさりぬ、これなん、稲荷の神のその

筋をしへ給ふにこそあらめと、あらかへるものらか、中うち   (争う者)

なこみ、あなかしことかたりあひ、相去と、鬼柳の辺まて

水落をあらため、さかひニは、二股の木を植て、あるハ炭を

埋ミたり、これなん炭塚といふ、さりけれは、その川を

稲荷の渡、あるハ飯形瀬といひつるを、いまハいなせの

渡といふ、又西行上人といひはやすうた「みちのくの

和賀と江刺のさかひこそ河にハいなせ山ニまた森」と

いふあり、いなせの渡を岩城川 同名ところ〃〃〃ニおひた〃し といふ

「廿九日、きのふの夕つかたよりの雨、けふのあしたに、猶ふり

まさりてけれは、出たてず、この日三九日とて、家ことに    (9月9・19・29日)

いはひ、わきてすえの九日なれは、といひて、茄子の薫

ものくハさるハなし、雨はいよ〃〃ふりくれて、つれ〃〃とひとり

ともし火をかかけて、人の書おける冊子ともありけるを

見れは、いつれのおほんときならん、むつきのはしめ

つかた、春日山ニ鹿の鳴たるは、いかなるためしにや

あらんとけいし奉るよしを、この南部十二代ニあたる

政行の君、そのころ都におはし給ひて、「春霞     (〜1388年)

秋たつ雰にまかハねは、おもひわすれてしかや     (きり)(紛う)

なくらん、となかめ給ひたるを、人ことに すしつたへて (誦し)

はて〃〃は叡聞ニ達し、主上あさからすや めて給ひ   (愛で給ひ)

けん、松風といふ硯を政行の君ニたはひ給ふ、此松風

 

の硯はむかし、本三位中将重衡受戒し給ひけるとき        (平清盛5男)

法然上人ニまゐらせられたるのちハ、うちに在りたりけるを、   (浄土宗祖)(禁裏)

こたひ、信行ニたうはりて、なかく南部のたからとハなりぬ、  (政行?)

硯の大さ、いつきむきはかりニして、青き石もてつくり、   (五斤? 壱斤600g

世ニたくひなき器なりけるとなん、又いはく、この

廿九代ニあたり給ふ、重信乃君ハ、あやしう歌ニこ〃ろ

さしふかく、天和三年五月七日 五月雨の晴ままち             (1683年)

えて大樹公ものニなんまうて給ふに、五位下にて、したかひ  (将軍の異称)

給ふに、不忍池の辺に逍遥し給ふをりしも、雨一おり

ふり過てけしきことによかりけれは、重信やある、

此なかめいか〃とありしかハ、「飛かねて 上野の池の五月雨に

みの毛もうすき五位のぬれ鷺、」公あさからす

めて給ふのあまり、その夜四品ニなり給ふけれは重信     (愛で給ふ)

の君、そか鳥の羽色の衣ぬきかへて、たもとゆた

かにかへり給ふたるなとありけるを、めつらしく見つ〃

 家の風ふきもたゆます水くきのあとさへ花と 匂ふことの葉

「三十日、けふも雨をやます、あるしの云、冬のすえより

むつきのはしめニ、この西なる、後藤野といふひろ

野乃雪のうへニ、狐の館見ゆ、又七戸の、三本木

平というにハ、きさらきの末つかた、狐の柵ふるなりと」

これなん、山市のたちけるを、後藤野には、きつねのたて (蜃気楼)

といひ、さんぼんぎたひには、きつねのさくといふと也

こしの海の、海市を狐の森といふたくひ也けり、或

地市ともいひけるものか      (大正の頃既に見えなかった 和賀郡史)

 

 

「かんな月の一日、晴たれは、黒沢尻をいづ、あるしも、いでその

あたりまてとて、ふた〃ひ、政任のうしの館あと近く

送り来りてけるニ、かいやる

 冬来ぬと 身にも時雨の零そめぬ わかる〃袖をしるへとはして  (おち)

しハしその毫をとこひて、あるし      看山

 今朝そしる 手をわかつとき 日のさむみ

とかいて、いかかあらんと見せけるニ  袖ニきのふの

露氷る也  といひて別ぬれは、北上河をふねニて        

さし渡し行ニ、やなかけて鮭とる人〃、水の辺にゐならぶか

いとさむけに、河風吹ぬ、男岡国見山を見つ〃過れは、橘村といふあり、

 すむ人の衣も寒く 立花の実さへ枝さへ 霜やおくらん

寺坂を越れは、門岡村也、南部を離れ、江刺郡ニ入て

鎮岡神社をたつね ぬさたいまつらんと、鶴脚、倉沢 (しずめがおか)(幣)

といふをへて、片岡とふ処ニ宿かりたる あかつき、  (岩谷堂の旧称)

 ねられすよ 枕に霜や 岡の名の 片しく袖の冴る冬の夜

 

 追記

その1

 天明五年9月17日の花巻での火事について確認しようとして、盛岡中央公民館にいって、その頃の雑書を見た。
 ずばりその記事があったので下に紹介する。天明五年九月22日の項である。

一 去ル十七日亥ノ下刻花巻川口町之内上町井筒屋
  仁兵衛借家弥助と申者火元ニて類焼家数
  上町三拾七軒竃数四拾壱竃同下町六軒
  竃数拾竃豊沢町弐拾三軒竃数三拾竃
  家数〆六拾六軒竃数八拾壱竃外土蔵
  二小屋二焼失之旨右ニ付火元弥助組預
  申付置候段御郡代より御目付共迄申遣候旨
  御目付申出候付幸便ニ江戸エ申上也
   但右火事去ル十八日御目付迄一通り御郡代
   より申遣置 焼跡御見分之上家数等此度
   吟味相済候由ニて前書之通申来候旨
   御目付申出也
        九ノ
          廿ニ日曇  三左衛門
                  肥後
                  中務

  文末の3名は家老で、毛馬内三左衛門、桜庭肥後、東中務だろう。
  このことから,云える事は
 1 真澄の火事についての記事は、事実であったこと。
 2 従って、真澄が宿にした、伊藤修の家は、上町、下町、豊沢町のいずれかに
   所在しただろうということ。 
    と、思われる。    

その2

 火災の翌日、真澄が移った「このかりや」は何処なのか、推測してみた。
「はやのしりに ゐくは ところのよきやのあるニうつりて」と、書いてあるのでそのまま素直に解釈した。
 「はやのしり」は早の尻で、早は早瀬、即ち川で、尻は、端で、ここでは川の合流点と解した。「ところのよきや」は、眺めの良い家と解した。
この条件に当てはまると思われる建物は、、伊藤修(号 鶏路)の結社「二月庵」が桜明神に構えた庵だろう、と、容易に推測できた。今はそこには、そのような建物があったことを示す標柱しかない。
下にそこの、写真を示す。


 
たしかに、ここは、豊沢川と北上川の合流点が見渡せ、かつては、非常に眺めの良い所だったと思われる。しかし、残念ながら。今は、防災工事が完全に行われ。あまりにも高く頑丈な土手が築かれ、更に近くに橋まで作られ、この、標柱の場から、直接、「ところのよい」眺めを見ることは出来ない。それでも、少し、足を伸ばし、堤防の上から眺めると、往時の眺めは充分に推測することは可能だ。

 第1  平成19年度分
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2 花巻城代日誌(一部)         4月使用こちらからどうぞ
3 本由緒(一部)             5月使用こちらからどうぞ
4 諸士知行所出物並境書上(一部) 6月使用こちらからどうぞ
5 御領分社堂(一部)          7月使用こちらからどうぞ
6 けふのせばのの(一部)       9月使用こちらからどうぞ
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8 雑々秘録(一部)           11月使用こちらからどうぞ
当国巡礼札所33所の御詠歌    12月使用こちらからどうぞ
10 日下文書                2月使用こちらからどうぞ
11諸手本趣                 3月使用こちらからどうぞ

 第2 平成20年度分
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