第2 平成20年度分

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 A テキスト解説

使用テキストについて

 

 宮澤猪太郎抜書

  原本は宮澤助五郎氏所蔵

 

今回の講座に使用するため宮澤氏から原本を借用してコピーした。

 宮澤家9代目猪太郎が先祖3代目儀四郎から5代目勇吉にかかる日記の一部を抜書きしたものらしい。従って実際の抜書きは明治になってからのものであるが古文書の学習として充分利用可能と判断した。

 

大工小頭としての城(武士)との関係、親戚付き合い、そのときどきの特筆すべき出来事など、具体的な花巻の地名、建物などと一緒にでてくるので興味深い。

なお、抜書きの元となっている日記「諸用書留日記」は市博物館に宮澤家から寄贈され、資料として保管されている。

 

 猪太郎については助五郎氏の著書「小頭と巧」及び「続小頭と巧」に詳しいが嘉永元年(1848年)に生まれ大正15年(1926年)に亡くなっている。

 仕事としては青森、九州の駅等の設計、特筆する物として下関の日清戦争の講和条約の調印会場として著名な春帆楼の再建に際し建築設計をした。花巻地区では花城尋常高等小学校校舎新築設計、湯本学校校舎設計等多数ある。

B 本文 

古日記ヨリ 抜書

 

 九世代宮澤猪太郎調 

 

一 明和三年午正月ヨリ明和九年

辰正月マテ筆記先祖三代目宮澤儀四郎勤中ヨリ

抜書但し九年十二月七日安永ト改メ

 

一 同日記ニ(いわく)先祖三四郎子二代目宮澤長次郎ハ先祖三四郎

ヨリ二代目トシ長次郎子三代目儀四郎トシ

テ大工小頭跡職明和三年正月廿六日被仰付   (1766年)

麻上下モニテ御礼申上ル

 

御郡代        御取次仮御町奉行  (小向 200石 岩手県史第5巻522頁)

 小向才右衛門     高橋市郎平    (高橋 60石 寛保3年 本由緒)

御取次        仝         (長坂 154石余 系胤譜考 48巻 小原)

 長治郎兵衛     四戸源太

御作事奉行      御作事奉行

 奥寺新左衛門     大湯孫四郎

                     (大湯 三駄壱人御扶持 寛保元年 本由緒下)

一 御蔵米片馬弐人御扶持方当月分

受取相渡申候以上

   明和三年二月十日   御作事奉行

                弐人

  南御蔵奉行

   津軽石左助殿

  〃

   野澤与六殿

 

  右は我壱ヶ月ニ付四斗入片馬宛受取

 

一 大工小頭御役料米トし五駄ヲ一ヶ年て

  両度ニ被下候事

一 仝人へ起炭一ヶ年ニ付詰所へ六方宛被下

一 畳 弐畳宛一ヶ年ニ付十二月廿五日ニ御渡被下

一 親類大工左兵衛明和三年

釈専慶

一 明和七年庚寅五月十四日三代目宮澤儀四郎没(カ) (1770年)

          但し法名ニハ閏六月十四日ニ有

  二代目長次郎病死ニ付忌申上ル 

           別家ノ一先祖ナリ

一 三代目宮澤儀四郎弟宇兵衛名代ニ差出し置ク

          但し同人ヲ吹張町ニ別家セリ

一 明和八年卯十月廿六日儀四郎血忌御届申上ル  (1771年)

              同晦日御免

明和九年三月

一 宮澤儀四郎親長次郎日記延享五年       (1748年)

  辰七月但し大工代料之儀ニ付一工ニ付八十文夜六文増

 

  辰明和五年十二月十九日           (1768年)

一 吹張ノ御組忠兵衛妻昨夜病死ニ付

  忌懸り申上ル

明和年中

右之通り儀四郎日記より写取

 

      三代目儀四郎

一 寛政八年宮澤勇吉日記          (1796年)

一 御作事所宮澤勇吉詰所用之起炭

  請取方之儀ニ付宝暦年中之日記相調

  勇吉親長右衛門より委細承り

  奉行へ申出候趣

 

一 泰勇吉印明治廿四年書保存せり

 

一 花巻御城御殿御居間新キ建方

  享和二年十月宮澤勇吉          (1802年)

       作事奉行 松岡織人  (文化五年1808花巻御支配帳 六拾石四升八合)

            大関秀助  (同右           五拾石)

 

一 寛政九年正月宮澤勇吉日記        (1797年)

  

宮澤勇吉弟兵蔵伊勢参宮

   其際四日町若者十人ほど登り九年正月九日ヨリ

   急〃仕度十日出立黒沢尻迄馬ニテ送遣 尤

   其節勇吉并向 幸作・長作・善助前ノ

   申松送り暮候事 大正十一年墓石骨堂新規

 

一 仝年正月十三日御作事所御用御細工始

  御用大工多兵衛・佐七

 

一 仝年二月二日勇吉妹しゅん川口町本橋ノ清太妻ニ

  遣し旧冬産後より病気ニ付養生相不叶

  今午ノ下刻病死依忌申上候 四日ニ忌御免

  五日ニ麻上下ニテ御用所へ罷出

 

一 仝年五月廿九日殿様御下向ニ付今七ツ過ニ

  御城着被遊 継目家督御礼之事御證無之候

  御立 晦日朝七ツ御発駕被遊 但し御倹約ニ付

  五万石之御行烈ニ罷事

 

一 殿様御下向此元御着城之節

  御目見可申上候 以上

   五月廿三日   武右衛門  (四戸武右衛門カ)

          大工小頭勇吉

 

  寛政三年七月廿三日忌 釈寿慶ノ妻釈妙機七回忌ト也   (1791年)

九年日記ニ曰ク

一 仝年七月廿二日

  勇吉祖母七回忌相当り候ニ付在親類 落合ノ多兵衛殿

                   川原ノ三之助殿

                   御夫婦

  浮田ノ伊八殿母 更木村治郎兵衛殿妻 幸田村北澤ノ長太郎母

  近所近親類斗り相招キ持舞ニ致廿三日相勤ル

 

  九月十六日

  宮澤

一 兵蔵前記ニ有之通当寛政九年正月

 

  十日江戸表へ登り居 公儀御棟梁平ノ内

  大隈と申候仁江門人ニ相成大工職図方稽古

  居候旨紙面申来り

       勇吉子供勇助ナラス哉

 

寛政十年戊年日記              (1798年)

       勇吉親

一 仝年二月朔日老父当年七拾五歳御賀儀

  右祝ニ一家衆招酒遣候事

 

一 安浄寺紋松殿此度上京ヒエンノ継目

  致居ニ付惣タン中出銭割付銭一貫文出銭也

 

一 寛政九年七月一日勇吉妻仝夜         (1797年)

  女子出産母子共に息才 更木金栗へ      (金栗=平野家の屋号)

  書状差出候

 

   七月二日    宮澤勇吉

   平野平十郎様

 

  寛政十年十一月十日四代目宮澤勇吉親     (1798年)

一 老父病気十月十二・三日頃より相煩次第ニ

  相弱り一両日以来より夜詰致候ニ付介抱御暇

  願上候處願之通り被仰付候ニ付御作事奉行

  ヨリ御使ヲ以申来り

 

      明六ツ上刻程ニ御病死被遊

 

  権七 野崎や 善助  向ノ甚助 伊平治殿

  川口町清兵衛 井筒屋宇八 其人数七・八人  明方より御為知

  親類  雫石弥次郎様 松川忠左衛門様    ( 松川 文化五年 百石)

 

  安俵村 七兵衛  落合村 多兵衛  倉沢村 万四郎道地新堤田頭書之覚帳 徳沢道地堤守  万四郎と関係あるか)

      万右衛門     三之助      新左衛門

               長左衛門     庄次

  更木村 金栗ノ 仁兵衛

      門兵衛

 

  十一月廿三日忌御免之儀御作事所より

  申来ニ付麻上下もニテ御用所へ御礼ニ罷出ル

 

一 寛政十年十二月廿七日釈廣貴様        (1798年)

  四十九日正月一日当候処今日明済致

 

一 寛政十一年日記  

 宮澤勇吉娘

  仝年十月廿五日 ヲモン女 向ノ大工幸作 へ

  遣ス婚礼近親類斗り相招キ

 

一 宮澤勇吉親釈廣貴一周忌十一月十三日

  十二日待夜御寺唯門殿外専念寺殿但し

  本寺御住職義本山より御使僧候 出張ニ付不参候故

  唯門殿斗り参り

    尤御墓所屋根此度十一日始テ建役ス

 

一 寛政十二年晴天 在縁者へ礼廻ス      (1800年)

     兵蔵 遣ス

     勇助

  仝年十月九日

一 安浄寺本堂御建替ニ付祈始之處

  勇吉ハ黒沢尻東御蔵御詰御用出張ニ付不参

  宮澤兵蔵ハ左兵衛妻中立ニて郡山へ参り不参ニ付

  勇吉子勇助ニても参候様申来候得共兵蔵

  妻更木へ病気様子聞ニ勇助遣ス故

  不参

 

一 寛政元年酉正月宮澤勇吉日記

一 宝暦六年子三月十日勇吉出生       (1756年)

  一 明和八年卯十一月廿五日仝弟兵蔵出生 (1771年)

  一 安永十年丑二月九日 おもん出生   (1781年)

  一 天明五年巳十一月八日 勇助出生   (1785年)

            早世シ去ル病死    (1833年歿)

妻 キク明治ニ死 (1874年歿)

  一 天明八年甲正月八日吹張別家也 庄助出生 (1788年)

  一 寛政四年子七月十五日 徳松出生     (1792年)

一 寛政元年三月七日勇吉親長右衛門      (1800年)

  之跡職被仰付候事麻上下ニテ御用所へ

  御請ニ罷出ル

  仝三年亥七月廿三日             (1791年)

一 祖母様養生不相叶九時御病ニ付新町

  野崎屋善助頼祈申上候 勇吉

 

一 松庵寺寺内太子堂サヤ堂大破ニ付

  修復之為メ壱人より三把冨蔵取立ル

一 寛政五年丑正月七日九ツ半時より大地震    (1793年)

  ニて御殿廻所〃破 御庵中(ふす)()カタオレル  (M8〜8.4 仙台領死者12名)

  御居間向土塀七八間外三社前仕切より西

  拾間鐘突堂下タ塀三社後通リナル北折曲リ

  ナル所へ御塀中ニタオレ入込ム其他町中寺社 

  共ニ所々大破致し

一 仝年九月十五日晩より月ノ出入日ノ出入共ニ

  赤し廿日朝迄其通リ

 

一 仝年二月十四日北万丁目村田形苗代四枚    (1793年)

  添八百五拾刈宮澤長次郎作り数代     (1刈4坪として3400坪)

  所有地ニ有之候處近年打続く不如意

  其上召使も次第ニ人不足ニ付賃金高直

  ニ付手作相成兼間ニ合不申故 幸ひ

  小作人ヨリ無心ニ付案堵金拾五貫文  (1貫文は1両 寛永の公定相場)

  ニ外ニ壱貫文酒代ニ受取宮澤兵蔵参り

  請取

一 仝年七月廿一日 六月拾日以来雨不降

  当年至て大暑万丁目村田干割

  轟木村抔は呑水も不自由ニ付御代官

  へ願上井堀り被仰付 同日より曇り夜

大雨 日数四十三日間大日照り在町共

井戸水尽ル

一 兵蔵妻更木村門兵衛殿娘 向宮澤佐兵衛 

  ニて媒ニて御座候 婚礼ニハ拙者并母共ニ罷越

一 寛政五年十二月川口町橋本大内屋     (1793年)

  伊兵衛殿家督清太妻宮澤勇吉妹

  おしゅん

一 慶応四年八代目宮澤儀四郎御作事所日記   (1868年)

  ニ曰仝年十二月廿五日明治元年ト改メ

  御達ニ被成候事

 

  右之通明治四年類覧致候

 

 

  (途中三頁省略)

 

 

  我等義老衰之上病気ニテ相勤兼

 候ニ付跡職勇吉へ被仰付被下置度旨

願上候處願之通り昨七日被仰付候此段

承知可被申候 以上

 

    寛政元年

       三月八日  宮澤 長右衛門

 

 

一鬼柳黒沢尻通

一二子万丁目通

一安俵高木通

一八幡寺林通

   八通 御代官所

     地内

      御村     何村大工

               誰殿

 

〆八通御代官所扱ノ分

註 (系胤譜考 小原) は「岩手の古文書」第10号掲載の小原茂 論文「花巻城下居住の武士について」からの引用である。氏は当該箇所を「系胤譜考」から採ったらしい。



 第1  平成19年度分
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2 花巻城代日誌(一部)         4月使用こちらからどうぞ
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 第2 平成20年度分
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