2 増補行程記について(始めに)

 このページは1999年(平成11年)1月29日に(株)東洋書院から初版発行された「奥州道中 増補行程記」をアレンジしコンパクトなリストにしようとして出来たものです。
 この本(以下単に「増補行程記(平成刊)」と云う。)は寛延4年(1751年)に盛岡藩士清水秋全が君命を蒙り図に記した「増補行程記」(盛岡市中央公民館所蔵)(以下単に「原本」と云う。)を岩手大学の細井計教授が編集・解読したものです。
 原本については兼ねてから引用文(画)等の形で度々目にし、多少の予備知識は有りましたが今回「増補行程記(平成刊)」を手にして、その素晴らしさに圧倒されました。
 「増補行程記(平成刊)」は原本の解説と影印版を1冊にしたもの(以下単に「影印版」という)と解読版(以下単に「解読版」という)1冊の都合2冊組です。その上有り難いことに編集に工夫が施され影印版と解読版が頁及び頁中の場所まで対応するようになっています。古文書の知識の乏しい我々にも2冊並置して眺めることにより原本の素晴らしさが充分味わえるように工夫されております。
 (なお以下で「原本」と云っている場合でも、文脈上私が見た前提で引用等をしている場合は、影印版を見てのことですのであらかじめお断りしておきます。)
 清水秋全が「図に記した」と述べているごとく原本は絵を主として随所に地名・神社仏閣・川橋等の名称その地に関わりのある故事古歌等をちりばめ江戸から盛岡までの道中を知らせる内容になっています。 宇野脩平編「日本街道総覧」(新人物往来社刊)の解説(4・5頁)によれば「道中行程記は簡単な道路の宿駅と道程を示したもの」とありのち次第に「細見記」という 言葉がはやり、「道中行程記」という言葉を駆逐したとあります。各地の出版元が競って発行しよく売れたとあります。
 原本は1751年に完成したものであり行程記と表現されています。もちろん是はあくまでも主君に捧げられたもので、従って版木でもないので非常に詳細丁寧に仕上げられており、各情報も根拠を持った筆者の自信のあるものだけと思われます。それが又原本の価値を高めている所以と思われます。
 一般に奥州街道を整備し、一里塚を築き江戸・日本橋までの距離が定まったのは慶長9年(1604年)(岩手県文化材調査報告書第36集「奥州道中」11頁。以下単に「岩手・報告書36集」という。)と云われていますが、原本が出来たのはそれから約150年位近くも経過した時点です。従って塚がないもの、木が枯れたものも少なくなかったようでありますが、それはそれで、その時点での忠実は史実と思われます。
 私が「増補行程記(平成刊)」を一読し、その素晴らしさに感激するとともに、次いでわき上がってきたのは、では今はどのようになっているのだろうか。ということでした。それを知るために収録されている膨大な情報を先ず整理してみよう と思いました。始めは網羅的にとりかかろうとしましたが、すぐにそれが容易でないことに気が付き、取りあえず宿場と一里塚に焦点を絞ることにしました。
 早速リスト化を計った。原本で宿場(次)91及び1里塚134とかいているが、なかなかその数字にならない、最近かなり近づいてきたがそれでもまだ差がある。原本では日本橋と盛岡がどうカウントされているのかどうかも判然としない。
                (以下16年6月19日訂正追加)
 色々考えた挙句、既に各市町村や多くの著書が述べている塚番号をあまり気にしてもしょうがないという事に気がついた。ここは自分流である程度統一した番号を作り、それに添って、説明検討したほうがむしろ、このページを見ていただいている方にとって判りやすいのではないかと思った。
 そこで、次のような原則で一里塚の通し番号にを兼ねた固有番号を作った。批判の余地はあるかもしれませんが、このページでの単なる約束としてご理解いただければ幸です。

 原則1 全ての一里塚(杭も含む)に「増」という字を前置する。即ち増補行程記を最初の手掛かりとした一里塚の調査での表現であるという意味をこめています。
 原則2 日本橋は000というように、全て3桁で表示します。
 原則3 日本橋は増000番で次の花川戸は増001番というように、北に行くに従って1ずつ数を増やしていきます。その結果盛岡は増136番となりました。

 これに従いますと、この固有番号を見ればその一里塚の日本橋からの凡その距離(旧街道沿いの)がわかります。すなわち、その番号の数字に4キロを掛ければいいわけですから。
 この数字は清水秋全の134、岩手県の文献での139とも合いません。須賀川の地元での認識している59番とも合いません。ちなみに須賀川は増053番です。
 自分なりに、国土地理院の明治年代の旧版地図(5万分の一)で大まかに距離を追ってきて、各一里塚間の距離を確認しましたが、大きな矛盾は無かったような気がします。
 勿論完全ではないかと思いますが、取り敢えずこの原則で編成しなおしましたので、ご了解をねがいます。(以上16年6月19日追加)

 それでもここまで来るのに大分時間がかかりました、でも尚今ひとつ厳密さに自信が持てる状態にはほど遠いというのが本音です。そこで一計を案じました。このインフォメーションネットワークの時代に自分一人で膨大な作業を仕上げようとするよりむしろ各地の方にその方々の地元の情報を聞いた方がより早く正確な情報をあつめるいい方法ではないだろうかということです。
 そういうことでここにあえて未完成のリストをホームページ化したわけです。なにとぞ皆様のご協力をお願いいたします。

 なおリストの項目について以下のような原則に則ったつもりです。

1 全体番号

 日本橋を1とした通し番号です。今まで宿場地内に一里塚があると思われた場合は同じ番号で処理いていたが、作業が進むにつれ煩わしくなったので、これからは機会を見ては、宿場と一里塚の行を分けることにした。例えば宮城県では白石の場合、一里塚が宿場の江戸よりにあるので通し番号は今までの111番とし、次の行に1112番で白石宿を加えた(15年9月5日追加)

2 宿場番号

 千住を1としています。あとは原本の順にひろいました。ただし岩手の郡山は原本から切損していますが、存在を当然のこととして追加しました。(前記の「日本街道総覧」収録の「五街道中細見記」による。以下単に「五街道中細見記」という。)全体番号の追加の個所で示したように、宿場と一里塚を別行にしたので、宿場の名称には宿と今後付け加えることにした。(15年9月5日追加)

3 一里塚番号
       (前文に新しく追加したので以下については削除16.11.13)
4 名称

 宿場は原本の記載通り採用しました。(ただし一部では現在の地名も括弧にして添えました。)
 一里塚はその所在地と思われる村等の地名を取りました。ただし箇所によって明らかに他の村でも便宜上近接の宿場に取り込んだ場合もありますが、げんみつな基準はありません。したがって、地元の方が通常呼び慣わしている名前があれば教えていただければと思います。

5 原本の情報

 絵及び書き込みから今現地で一里塚を探そうとしたときにヒントとなりそうなものを選んだつもりですが、なにせ訪れたことのない場所でかつ250年前の記録であるのでどの程度現在において妥当性があるか正直云って自信はない。数年前に訪れた家を探すのに、そのとき屋根にとまっていたカラスを手がかりにしているように思えるときもある。しかしそれなりに楽しい作業でもあった。坂の名前とか橋の名前がひょっとして今も使われているかもしれないと考えると、いつか訪れたときの感激が今から楽しみです。
 記載したものは原本からの場合はそのまま表示し、それを補足するためのものや現在の状況等は括弧書きにした。たとえば(塚の絵あり)という場合は、原本に「一里塚」等の文字では記載されていないが塚と思われる絵があるといういみであり、(の北)というのは、塚(の絵)がその場所(たとえば橋とか神社とか)の北側(盛岡より)にあるという程度の意味です。
 なお宿場だけの場所では気分転換もかねて、名物とか宿場の規模とかを拾って書き込んだ場合もあります。

6 松尾芭蕉及び菅江真澄に関すること

 この街道を往来した人は膨大な数になると思われますが、その内この2人の足取りが記録として廣く知られ、且つ記載する価値があると思われるので記載しました。芭蕉に関しては「奥の細道を歩く」井本農一他著(新潮社刊)の見開きのイラスト地図から関係する箇所を拾いました。菅江真澄に関しては復刻「南部叢書」第6冊(歴史図書社刊)の真澄遊覧から拾いました。

7 その他の文献による情報

 原本以外の文献等から今後訪れるのに有効と思われる情報を記載しました。スペースの関係で引用した次の参考資料を表示するときは右の省略型で行っておりますので著作権者及びご覧の方にあらかじめご了承願います。

  (1) 埼玉県教育委員会歴史の道調査報告書第3集「日光道中」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・埼会
  (2) 近世交通史料集6「日光・奥州・甲州道中宿村大概帳」(児玉幸多校訂)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大概帳
  (3) 栃木県文化協会「栃木の街道」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栃会
  (3−2) 日光街道ルネッサンス21推進委員会「栃木の日光街道」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・栃木日光街道
  (4) 福島県文化財調査報告書第121号「歴史の道」調査報告書奥州道中(白坂境明神ー貝田)1983年3月・・・・福会
  (5) 宮城県文化財調査報告書第60集「歴史の道調査報告書」奥州街道(仙台ー有壁)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮会
  (6) 岩手県文化財調査報告書第36集岩手県「歴史の道」調査報告書奥州道中(昭和53年頃)・・・・・・・・・・・・・・岩会
  (7) 宇野脩平編集「日本街道総覧」(新人物往来社)におさめられた「五海道中細見記」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五海道中細見記
  ( 8) 日光道中分間延絵図(東京国立博物館所蔵・東京美術刊行)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    日光延絵図(第1−5)
  (9) 奥州道中分間延絵図(同上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   奥州延絵図(第1−2)
8 現況
 国等の指定状況と私が実際に見た状況をコメントしています。コメントした場合可能な限り現場の写真を保存しておりますので希望の方はご連絡ください。

スペースの関係で以下の項目については2枚目のリストに記載しました。

9 表示里程


 原本に記載の通り採用。 ただしその数字はその宿場から次の宿場までの里程です。なお、原本に記載が無い場合は、五街道中細見記から取り括弧書きしました。

10 左キロ換算

 8の里程を次の換算率で計算しました。

  1里を    3.927キロメートル
 1丁(町)を 109メートル
 1里を  36丁

11 キロ累計


 9で換算したものを日本橋からのキロになるように累計してあります。すなわち千住では9.6キロであり盛岡では556.0キロとなります。

12 最寄りの駅

 作業を容易にするためここでは東北本線と東武鉄道伊勢崎線・日光線の駅でなおかつ当時の名称がほぼそのまま現在も使われているところだけを取り上げました。


13 東京駅からの距離(これは平成16年1月2日に削除)

 東北本線については東京駅からの営業距離であり東武鉄道は浅草からの営業距離です。なお区別のため、東武鉄道にかんする営業距離は括弧書きにしました。

13 塚番号の根拠及び宿についての補足(平成16年1月2日に新しく追加)

 塚の番号を花川戸を1とし以下北に登り順につけようと思ったが、既に番号を付けて公表されているものがあるのでそれを優先した。
  但し栗橋から古河にかけて
  及び中田原の前後及び栃木の泉田から須賀川にかけて
  更に福島から宮城、及び宮城から岩手にかけてが重複・飛番になっているので今後の検討課題である。

  宿については阿久津及び日出山が資料により扱いがばらばらであるが、ここでは阿久津は宿とせず日出山は宿とした。

14 本陣名

 原本記載の通り表示した。「不承候」とか「なし」もそのまま。「御仮屋」も本陣に類すると見て記載しました。

15 原著者清水秋全について

 秋全は宝永3年(1706年)に父善右エ門秋温の嫡子として花巻にうまれた。右衛門七(原本では「右衛門漆」と署名されている。)とも云うらしい。若いころから学問の道を好み、京都にまで遊学したとのことだ。
 この後、盛岡藩に出仕し、33代藩主南部利視及び34代藩主南部利雄のお伽役として、歌道や執筆の相手役を勤めたそうだ。明和3年(1766年)に没したとのこと。(「花巻の文化を高めた先人・百七十人」佐藤昭孝著56頁参照)従って、秋全が、増補行程記で花巻の一里塚を「此塚江戸よりこれ迄の塚ふり也」と褒め称えたのもむべなるかなである。
 なお秋全は父善右衛門が老衰したので享保20年12月11日(1735年)に家督を継ぐことを許されている。(「盛岡藩雑書第十五巻」盛岡市教育委員会・盛岡市中央公民館編集・平成13年12月25日発行・1086頁に記載)(この記載については盛岡の「近世文書研究所」のホームページ「とぴっくす館」の細井計先生の文から教えていただいたものである。)



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1 花巻このごろ
増補行程記(目次)
 2 増補行程記(はじめに)
 3 増補行程記(リスト1の1)東京都内
 4 増補行程記(リスト1の2)埼玉県内
 5 増補行程記(リスト1の3)茨城県内
 6 増補行程記(リスト1の4)栃木県内
 7 増補行程記(リスト1の5)福島県内
 8 増補行程記(リスト1の6)宮城県内
 9 増補行程記(リスト1の7)岩手県内
10 増補行程記(リスト2

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