増補行程記

リスト1の4 栃木県

増017野木 増018乙女 増019間々田 増020小山 増021喜沢
増022小金井 増023下石橋 増024下古山 増025雀宮 増026江曾嶋
増027宇都宮 増028竹林 増029海道新田 増030白沢 増031氏家
増032松山新田 増033喜連川 増034和田 増035引田 増036滝沢

増037太田原 増038中田原 増039練貫 増040鍋掛 増041寺子
   
増042夫婦石 増043板屋 増044泉田

このページに掲載のすべてに共通ですが、上に載せた映像はページの容量の関係で「サムネイル」形式の縮小イメージです。実画像は全て手元にありますのでご希望の方はメールください。勿論営利とか出版を目的とされる方以外は無料です。なお限られた枚数ですが画像クリップによる実画像の一部を下の表にも入れておきました。mail:susumu3@michinoku.ne.jp

全体番号 宿場番号 一里塚番号 名称 原本の情報 松尾芭蕉及び菅江真澄に関すること その他の文献による情報 現況
29 10 0 野気宿 宿の面影あり
30 0 増017 野木 小社(稲生)(及び)満願寺(の北)・時宗真常寺(の南) 「満願寺の北に一里塚があったが、今は跡もない」(栃会69・70頁) 近所の婦人に聞いたが満願寺の直ぐ北の空き地兼畑が其の跡だというのでそこを写す(15・5・25)
31 0 増018 乙女 一方に1里塚木なし・八幡宮・石鳥居(の南) 「小山市乙女に入る。乙女の中程にも杉の植えられた一里塚があったが、今はない」(栃会71頁)・「栃木日光街道」の29頁の地図によると法音寺の500メートルほど北にある馬頭観音と若宮八幡宮の中間より少し東京よりに「乙女一里塚跡」とかかれている。宇都宮で友人に会った。其の時(15・5・25)「栃木日光街道」を頂戴した。市立小山博物館の小川学芸員から頂いたメモによると西側の塚は大正8,9年にくずされ、東側の塚は昭和33年ごろまで半分ほど残っていたそうだ。八重桜と東照権現の祠が有ったらしい。 「栃木日光街道」29頁の地図に従って、その場所と思しき民家を訪ねたが、家人は一里塚は馬頭観世音の南に100メートルほど行ったところの筋向かいの花屋さんがそうだという(16.8.13)。花屋(小山園)に行ったが主人は30年ほど前、塚が邪魔になったので撤去したと言う。主人の言う塚があった辺りを写す(16・11・6)。ここ「乙女」から「増035引田」まで(一部以前の調査で済ませたところを除き)友人の古口紀夫氏が一緒に調査してくれた。改めて感謝したい。左に挙げた「友人」とは彼のことである。
32 11 0 儘田宿 宿の面影あり
33 0 増019 間々田 儘田出口より塚まで2町余・雷電社あり(の南)・町宿長9丁程 芭蕉3月 大概帳に「間々田宿地内」とある(132頁)・「栃木日光街道」30頁の地図によると千駄塚信号の300メートルほど東京よりに郵便局がありその向かいあたりに「間々田一里塚跡」があることになっている。 間々田郵便局の向かいは蛸屋という菓子屋さんだった。店の人に聞いたが、たしかにそこが一里塚の跡だという。時々人に訊かれるそうだ。店の前を写す。(16・8・13)・小山博物館の小川学芸員は上の場所より少し西側で床屋さんのあたりらしいと言われたが時間が無く取りあえずペンデング。
34 0 増020 小山 町中一里塚・慈法寺(の南)・江戸より是迄の能酒也 「日光街道と小山第二小学校へ通ずる道との交叉点の南に一里塚があったが、明治17年ごろ破壊された。」(栃会74頁) 交差点を西に曲がって3軒目ぐらいの洋菓子屋さんに聞いたら、東京街道沿いの永島銅鉄屋さんのところに在ったとのことなので閉店中の店を正面から写す。(15・5・25)
35 12 0 小山宿 宿の面影あり
36 0 増021 喜沢 茶屋より塚まで3・4町隔てあり・日光海道併松(分岐の北) 「小道は・・雑木林に入り、右手には東北本線が見える。追分から約700メートル・・小道の両側に一里塚が残っている。」(栃会83頁)・大概帳では「喜沢」と表記している(142頁)・「栃木日光街道」33頁の地図によると東北新幹線の近くに「喜沢一里塚」があることになっている。塚の写真も同35頁に載っている。 古口氏の案内でようやく撮影できた。左に挙げた本(栃会83頁)では「両側に残っている」というが東側の塚は空き地の単なる盛り土程度になっている。そばに車が駐車していた。西の塚は周りの雑木林に調和して荘厳の気配すら感じた。(16・11・6撮影)下に添付
37 13 0 芋柄新田宿 玉庄院・引込薬師有
38 0 増022 小金井 小金井入口(より)塚まで1町ほど・もぐさの名物 大概帳に「小金井地内」とある(158頁) 国指定史跡・大正11年3月8日(国分寺町)・14・1・7写す・小金井駅から徒歩5・6分だった
39 14 0 小金井宿 宿の面影が残っていた
40 0 増023 下石橋 一方木なし・盗人神と申し候(の南) 「国分寺・石橋両町の境・・なお一里塚がこの付近にあったが、その跡はない。」(栃会88頁)・「江戸日本橋より二三里目の一里塚で」(日光延絵図第4巻解説編6頁)・「栃木日光街道」38頁の地図によると下石橋信号の300メートルほど西南「上三川町飛地」内に「下石橋一里塚跡」があることになっている。 下石橋交差点の南に石橋消防署があり、そこで訊いたら消防署の南裏の一角が上三川の飛び地でその中の畑地が一里塚の跡らしいとのこと。何も表示等はないとのこと。それと思しき畑地を写す。(16・8・13)
平成19年12月21日小林さんから、以下の情報が届きました。自分はまだ確認をしておりませんが取り敢えず紹介します。「今日 小山から石橋までの日光道中を歩いてきました。23番目の下石橋の一里塚を確認しました。
確認よりそれらしき?塚でした。林の笹藪の中にこんもりとした高さがありました・
尚 消防署よりかなり南の位置です。」(下に頂いた地図と写真を添付しました)
41 15 0 石橋宿 此宿長さ5丁余 宿の面影が残っていた
42 0 増024 下古山 小山新田より塚まで1町ほど(塚の絵あり)これよりサヤ堂新田迄5町程 「一里塚は、工場団地の南縁付近にあったと思われる」(栃会91頁)・大概帳では「下古山地内」と記載してある。(174頁)・「江戸日本橋より二四里目の一里塚で・・・現在はない。」(日光延絵図第4巻解説編13頁) 手塚先生からメモを頂いたが、ここに関しては「絵図などに描かれる場所は現在工業団地になっており、その姿を見ることはできません。」とのこと。やむをえず、下古山の交差点を写す。そこの北東が工業団地であった。(16・11・6)写す
43 0 増025 雀宮 (塚の絵あり)茂原村と雀宮村(境の北)此町長さ5丁計 「陸上自衛隊の北に続く町並みは・・この町並みの北に杉が植えられた一里塚があったと言われ、この先が雀の宮宿に相当し」(栃会93頁)・大概帳では「雀の宮宿地内」と記載(174頁)・「江戸日本橋よりニ五里目の一里塚で・・現在はない。」(日光延絵図第4巻解説編21頁) 手塚先生のメモでは「距離的に見て野沢輪業店あたりにあったと思われる。」とある。偶々15・5・24にこの当たりを調査したとき、その店のおじさんに尋ねた記憶がある。今回は店のおじさんも覚えていてくれた。会釈をし、店を写させて貰った。(16・11・6)
44 16 0 雀宮宿 宿の面影あり
45 0 増026 江曽嶋 大新田村出口(の北) 「台新田に入る。この先で街道が東北本線の線路に接する所は、一里または一里山と呼ばれる。ここは宇都宮から約1里のところであるが、右の塚に杉、左の塚に檜が植えられた一里塚があった。」(栃会94頁)・大概帳では「江曾嶋村地内」と記載(174頁)・「江戸より二六里目の一里塚であり・・・現在は左右の塚ともない。」(日光延絵図第4巻解説編27頁)・「栃木日光街道」42頁の地図では一里信号の線路よりが「江曾嶋の一里塚跡」と成っている・ 信号の近くの「一里」というお店屋さんに一里塚について尋ねたが知らないとのこと。とりあえず其の場所と信号機の「一里」という表示を写す(15・5・24)
46 17 0 宇都宮(宿)
47 0 増027 宇都宮 1里塚にあたると申し候。塚はなし・伝馬町馬次所・名物宮ちぢみの類・会津塗物 大概帳には「宇都宮宿地内」と記載(192頁)・「日光街道は伝馬町(今の泉町、小幡一丁目、伝馬町)にかかる。」(栃会100頁)・「日本橋より二七里目の一里塚で・・現在は左右の塚ともない・」(日光延絵図第4巻解説編35頁)なお絵図の31頁を見ると一里塚は伝馬町で日光(徳次郎)方向に折れてから少し行った新田町地内に所在している。従って竹林方向に行くときの距離の出し方に注目する要が有る。 今回の調査を全面的に協力してくれた古口氏が偶々彼が以前から面識のあった手塚良徳先生(私の調査で非常にお世話になった「日光道中分間延絵図」及び「奥州道中分間延絵図」の解説を執筆された先生)を小生に引き合わせてくれ、更にまた宇都宮から練貫までの間ご同道頂けると言うチャンスをセットしてくれた。今回先生に最初に案内いただいた伝馬町の一里塚跡。手塚先生の話では西側の塚は上の写真の半田歯科医院とタサキ商店の境あたりで、東側の塚は向かいの箕輪酒店のあたりではないかとのこと(16・11・6撮影)
48 0 増028 竹林 伝馬町の次・竹林出口(の北) 大概帳には「竹林地内」と記載(192頁)・「奥州延絵図」第1巻によると宇都宮を出てすぐ高尾明神と竹林村大日の中間ぐらい、天神の東側に一里塚の絵がある。同解説編7頁に「この一里塚は宇都宮市竹林町にあったが、宇都宮宿から奥州道中最初の一里塚であった。・・早くから塚は崩壊し、畑地となった。現在は両側とも人家となり、跡形もない。」とある 手塚先生によると「この一里塚は、現在、両方ともないので、その場所を特定することは出来ないが、「分間延絵図」などにより、距離的に見て宇都宮市立豊郷小学校脇の竹林歩道橋より約30メートル手前、その付近と思われる。」とのことなので、南側からその方向を見て写す。(16・11・6)
49 0 増029 海道新田 (五海道中細見記にあり)(日本街道総覧・宇野脩平編ー以下同じ) 大概帳には「海道新田地内、尤古往還にて往還より弐丁余引込これあり」と記載(192頁) 手塚先生の話では海道新田が開村したのは元和年間(1616−24)であり、慶長9年(1604)の一里塚築造より遅れている。塚は義経街道(旧奥州街道)に築造されたとのこと。今は確認出来ないと言われたが、推定として写真の畑地を教えていただいた。そこは字名として「十三塚」といわれているとの事。この場所から間をおいて南の延長上に義経街道が残っている。(16.11・6)
50 18 0 白沢宿 名物牛蒡・餅・酒 宿の面影があり、更に観光地的にも整備されていた。道に沿って流れる水路に水車なども復元してあった。(16・11・6)
51 0 増030 白沢 これあると古き行程記に出たり。不見・あくつ入口(と)あくつ川(の間) 「鬼怒川渡船場河原之内に有之候処、・当時塚形無之、杉之古木有之所を壱里塚跡と言」(大概帳246頁)・「奥州延絵図」第1巻解説編によれば「字三本杉には一里塚があったと伝えられている。・・・すでに天保14年の頃は一里塚はなかったことがわかる。この場所は河原地であったので、度々の水害により崩壊したと思われる。また場所もはっきりしていない。」(20頁)とある。分間延絵図によると鬼怒川の渡船場と西鬼怒川の支流の押切新川の間で押切新川に懸る字新川土橋の左手に「野州河内郡塩谷郡境」と書かれており、その更に左手に「此所往昔一里塚跡之由字三本杉」と書かれている。 手塚先生に案内いただく。ここは字三本杉で稲荷は「与作稲荷」とのこと。(16・11・6撮影)下に添付
(注)増補行程記では「三本杉有」と書いてある場所と「一里塚」と表記された場所は鬼怒川を挟んだ別々の場所になっている。川の流れ自体も変わったのかも知れないし。検討の要が有るかもしれない。手塚先生のメモの中に「氏家町史」からの引用があり。そこには「かって勝山城地にまつられていた稲荷が、洪水によって流されて三本杉の根元に止まり・・」と、あった。江戸期の初期・中期・後期での川床の変動は今の自分の能力の眼界の外である。他日を期す。
栃木の小林さん(前に下石橋で情報を頂いた方)から白沢の一里塚の新しい情報をいただきました。その画像一枚を下に添えました。他に、説明文及び地図もいただきましたがスペースの関係で、ここには表示しませんでした。希望の方はメール願います。小林さん有難う御座いました。
52 0 増031 氏家 「阿久津宿を左折する。・・道は間もなく坂を上る。上りつめた付近に一里塚があったが、今は何も残っていない。」(栃会283頁)・「堂原一里塚は明治以降消滅」(氏家の文化財97頁)・「奥州延絵図」第1巻によると氏家宿伝馬町の南手前にあることになっている。近くに真蔵院及びイナリがある。 手塚先生の話では奥州街道と大谷道が合流する所にあったのかもしれないが現在形跡も無いとのこと。また、分間延絵図の道標近くに書かれている「一里塚」という表記は誤記かもしれないとも言われた。取りあえず奥州街道と大谷道の分岐を示す道標を写す。(16・11・6)道標には「左水戸・かさま・下だて・下づま右江戸海道」とあるとのこと。
53 19 0 氏家宿 町長さ5丁程 宿場の面影有り。
54 0 増032 松山新田 真言心蓮寺(の南)・松山新田入口(の南) 「やがて松山の集落にはいる。中ほど右側に坂本氏邸内の塚が一里塚跡である」(栃会285頁)・「狭間田の一里塚も北側が破壊され、南側に1基現存するだけになった。・・32番目にあたる一里塚である。」(氏家の文化財97頁) 坂本さん宅の塀の内側にかろうじて残った1基を写す、塚の上に小さなお堂があった。(12・11・5)
20 0 喜連川宿 宿の面影あり
56 0 増033 喜連川 町中1里塚・川原町・鮎のすし名物 「その先横町角の野沢金物店の所に昔は一里塚があったが、その面影は全く見られない。」(栃会288頁) 日曜日なので家人がいない野沢屋を取り敢えず写す(12・11・5)
57 0 増034 和田 木なし・鶴ヶ坂・この坂道廣くきれいなり・曽根田入口(まで)此間長さ7・8丁 大概帳には「和田地内」と記載(266頁)・「平成3年9月に写真掲載の34番目のものが南和田地内で確認された」(喜連川の文化財120頁) 塚の土地所有者と「喜連川の文化財120頁」に紹介された福富幸平さんに直接案内され鬱蒼とした藪の中でかろうじて面影の有る塚を写す。廃道に近い旧道から脇に入った林の中だった。そこがさらに古い旧道とのこと(12・11・5)
58 0 増035 引田 この塚可考・坂(の中)・高橋・土はし也(の南 大概帳には「上下河戸村地内古道にて往還より引込有之」と記載(266頁)「奥州延絵図」第1巻解説編によれば「下河戸字引田の手塚家の屋敷内に一里塚があり、ほぼ一里塚の形跡をとどめている。向かって(喜連川宿方面)右側の塚は破壊されたが、かすかにその跡をたどることが出来る。左側の塚は第2次大戦中に防空壕に利用したため塚は崩されているが、ほぼ形をとどめている」(53頁) 手塚先生の案内で念願の塚を見た。左の説明のように防空壕にしたとかで居室にした部分が陥没した格好だ。ご主人は入院中とかでおばあちゃんが案内してくれた。(16・11・6撮影)ちなみにこちらの家も手塚姓だが手塚先生とは無関係とのこと。
59 21 0 佐久山宿 町長6丁程 宿場の面影があった(12・11・5)
60 0 増036 滝沢 原本には一里塚に関する記載無し 大概帳には「滝沢地内」と記載(278頁)・「奥州延絵図」第2巻及びその解説編(18頁)によると街道から村道に沿い少し東に入ったところで慶運院の近くに旧往還一里塚として塚が1つ見える 箒川にかかる岩井橋を渡り、しばらく行って右手の小高いところに墓地があった。寺は無かったが墓地の入り口の石柱を見ると「慶運院」と彫られていた。それを写した。(16・11・7)手塚先生の話では石柱から右手前方約30メートル、古道の沿道たりが一里塚のあったところではないかとのこと。今は民家があった。高橋さんという家だ。
61 0 増037 大田原 六本松と申すあり(の北)・小塚多し(の北)・地蔵堂(の近くの川から北に向かい)この間併松無し行程長し 「奥州延絵図」第2巻及び同解説編26頁によると「六本松を過ぎ200メートル進んだあたりに木の無い一里塚が左右に描かれている」が「付近の人に聞いてみたが全くわからなく、付近を調べてもそれらしい塚はなかった。」「早くから破壊されたとおもわれる。」とある 手塚先生の話では幕末に建立された浅野八幡宮の敷地が奥州街道に接続するあたりに一里塚があったのではないかとの事だった。分間延絵図は文化3年(1806年)の完成なのでこの神社は記載されていないとの事。その周辺を写す。(16.11・7)
62 22 0 大田原宿 宿の面影あり
63 0 増038 中田原 (塚の絵あり)植え添え松 大田原の二本松と申す大木の松有り一本枯れたり(の北) 「蛇尾川を渡って道を左にとる。・・やがて江戸より38番目の一里塚が現れる。・・道の右側の塚は崩され。左側の塚は三分の一ほど削られた所で保存されている。」(栃会296頁) 市指定文化財昭和36年3月22日・大田原市中田原・かろうじて残った塚を写す。排水溝の工事がおこなわれていた、後少しで塚に達しそうだ、どうなるのだろうか(12・11・5)(追記:16・11・7無事あった)
64 0 増039 練貫 左右木なし・宿の中に 大概帳に「練貫地内」と記載(294頁)・「奥州延絵図」第2巻によると練貫の集落の中心部で福性院の手前に東側は木がなく西側は木が植えられた塚がある。同解説編によると「現在は人家が建って左右ともその跡形もない。江戸より40番目の一里塚であったという。」(44頁)とある。「金田村大字練貫にもある、今は人家の屋敷となりて跡方もない、右側のつかのありし所には精米所が建築されている。」(栃木県史第2巻交通編田代善吉著230ページ) 今回の調査で手塚先生に最後に案内していただいた場所だ。集落の北はずれにある庚申及び永代常夜燈から100数十メートル南にいったところ、後藤さんという大きな農家の道を挟んだ南側の田んぼ。そこが一里塚の跡らしい。先ほどの後藤家より2・3軒南隣の後藤さんという長老から手塚先生がその方が子供のころ、(左の資料にある)精米所で遊んだことを伺った。場所は確かに先ほどのところだそうだ。ちなみにこのあたりの人はほとんど後藤姓だとの事。(16・11・7写す)
65 0 増040 鍋掛 日の沢出口(の北)・鍋懸入り口(の南)・愛宕坂 「やがて樋沢を過ぎると・・愛宕神社参道の向かい側に一里塚がある。街道の切り通し右手上に「史跡一里塚の跡」と木柱・・がみえかくれしている。」(栃会297頁)・「八幡宮より約80メートル行き、切り通しの左手の石段を上ると、高台の右手に一里塚がある。元来はこの下の平地から約11メートル東にあったが、道路の拡幅工事により平成6年ここにうつしたものである。かっては街道の両側にあった。江戸より41里の距離を示す塚という。(「奥州延絵図」第2巻解説編47頁) 切り通しの上に有る鍋懸神社の参道右側に移設されたものがあった(12・11・5写す)下に添付
66 23 0 鍋掛宿 宿の面影あり
67 24 0 越堀宿 此宿3丁余 宿場の面影があった(12・11・5)
68 0 増041 寺子 (近くに)石碑あり、一方に木なし・寺子村小宿(の南) 「富士見峠・・を一気に下りると寺子宿である。ここは江戸より42里目のところで、十字路の角に「史跡一里塚跡」の木柱が立っている。」(栃会303頁)・「奥州延絵図」第2巻によると寺子の集落の入口近くに東側は熊野堂と並び西側ともに木が植えられずに描かれている。同解説編によると「旧寺子小学校に復元した一里塚があり、江戸より42番目の一里塚である。・・現在の塚は平成7年3月に復元されたものである。」(60頁) 交叉店の南東の角に復元された一里塚があったのでそれを写す(12・11・5)
69 0 増042 夫婦石 一方木なし・妻夫石(の近く) 「坂を上り台地に入ると間もなく右手に「夫婦石の一里塚」がある。藪におおわれて、那須町指定の案内板もうっかりすると見落としそうである。」(栃会304頁) 町指定文化財昭和37年10月15日・比較的保存も良く塚が二つとも残っていた(12・11・5写す)芦野温泉の近く
70 25 0 芦野宿 遊行柳・ゆせん大明神 芭蕉4月 宿の面影あり
71 0 増043 板屋 板屋坂(の南) 「(板屋)の集落を過ぎ、切り通しのような坂をのぼりつめる。この切り通しの両側の上に、江戸から45番目の一里塚がある」(栃会313頁) 案内板は有ったが塚は大分風化し原形が確認できないぐらいであった(12・11・5)・平成17年度企画展「とちぎの歴史街道」栃木県立博物館発行の65頁に塚の写真がはっきり載っている。平成7年撮影とのこと。
72 0 増044 泉田 寄井町出口(の北) 「寄居から北へ5・600メートル位あるだろうか、左手に「関東最北端の一里塚」と説明書きされているこじんまりした、綺麗にまとまった一里塚がある。「泉田の一里塚」である。江戸から46番目に当たるという。道路拡張のため東側のものはなくなり、西側のものだけ残っている。」(栃会314・315頁) 町指定文化財・道端の駐車場の中に1つだけ残っていた、比較的良く保存されていた(12・11・4)

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 1 花巻このごろ
増補行程記(目次)
 2 増補行程記(はじめに)
 3 増補行程記(リスト1の1)東京都内
 4 増補行程記(リスト1の2)埼玉県内
 5 増補行程記(リスト1の3)茨城県内
 6 増補行程記(リスト1の4)栃木県内
 7 増補行程記(リスト1の5)福島県内
 8 増補行程記(リスト1の6)宮城県内
 9 増補行程記(リスト1の7)岩手県内
10 増補行程記(リスト2

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