増補行程記

リスト1の7 岩手県

増112鬼死骸 増113一関 増114大沢 増115平泉 増116徳沢
増117前沢 増118小山 増119真城 増120水沢 増121八幡
増122三ヶ尻 増123岩野目 増124黒沢尻 増125二子 増126成田
増127花巻 増128似内 増129江曾 増130石鳥谷 増131日詰
増132郡山 増133相野々 増134西見前 増135川久保 増136盛岡

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全体
番号
宿場
番号
一里塚番号 名称 原本の情報 松尾芭蕉及び菅江真澄に関すること その他の文献による情報 現況
198 0 増112 鬼死骸 まきた橋(の北)(近くに)一丈ほど鬼石有・(川の近く)鹿島神社有 真澄天明6年9月18日 現存(宮会16頁)・大正5年の「真滝村誌」によれば「山坂多く馬車を通ずる能ざれるを以って」明治16年に国道が改修されて、現在の4号線に切り替えられた。(岩会12頁)・鬼死骸村絵図(文化15年4月佐藤勇右衛門作)「絵図で見る江戸時代の一関」(一関博物館発行の9頁に掲載)によると鬼石の少し北側に1里塚があることになっている。 確認できないので、取り敢えず鬼石を写す(12・11・23)
199 83 0 一関宿 芭蕉5月12日・真澄天明6年8月6日
200 0 増113 一関 磐井川(の南)・一関出口(の北) 元禄12年3月の生江助内による西磐井郷図(写し)によると磐井橋の南たもとに1里塚があることになっている。(「絵図で見る江戸時代の一関」(一関博物館刊行)所収6頁「一関城下拡大」 磐井橋の南たもとに芭蕉が泊った宿がこの場所にあったという看板が有ったので取り敢えずそれを写す。(12・10・14)・鬼死骸及び一関の両方についてご助力を賜った一関博物館の工藤武氏も1里塚が有ったのはそのあたりだろうとのこと(13.4.14)
201 84 0 山の目宿 当処より白糸染色出る 真澄天明8年4月10日 * 宿場の面影が少し残っていた
202 0 増114 おさべ 大沢塚と申す・峰岸村出口(の北)平泉村のうち 「(一関)市境から約500メートル北進した大佐の辺は、国道の東約10数メートルの所を旧道がはしり、そこに、1里塚と松並木が有ったと言うが、東北本線の開通拡幅工事によって撤去され、現在は痕跡すらとどめていない。」(岩会14頁) 近所で仕事をしている人に尋ねたら塚は戦後直ぐぐらいに取り壊されたとのこと、昔は杉の木があったそうだ。一関と平泉の境界から200メートル北に来たあたりの鉄道と旧国道との間とのこと。取り敢えず見当をつけて小高くなった竹やぶを写す(13・4・14)・このあたりを「塚」(塚所)と言っているとのこと・工事及び水害で荒れたがその後、松などが残っていた。しかし女子供たちのため無用心だと地元の女性達の意見で松を撤去したと近くの農家の人が教えてくれた。平成24年5月21日に近くの木村正(昭和4年生)に聞いたら、今水路になっている辺りとの事。線路のキロ表示が449キロ辺り。
203 0 増115 平泉 (塚の絵あり)・自在王院(の近く東)・弁慶松(の南) 芭蕉5月・真澄天明8年4月10日・天明6年1月20日 「無量光院跡一里塚」(岩会18頁)・「平泉村高館下(桜川東方)」(水沢市史3・729頁) 平泉町文化財調査員の及川さんの話では無量光院跡から道路よりの土塁の端の当たりという。(16・6・26)その近所に行き鈴木親男さん宅に伺ったら土塁のアジサイの木のもう少し南側だったとのこと。以前は鈴木さんのお宅がそこに有ったそうだ。南側からアジサイを写す。(16・11・20)
204 0 増116 徳沢 瀬原町出口(の北)・白鳥川土橋(のかなり南) 「白鳥村徳沢坂中」(水沢市史3・730頁)・「前沢と衣川の境界近くの旧国道徳沢橋の北、坂の上りはじめの西側にあった」(同735頁) 東北自動車道工事により道の下になったと近所の人が教えてくれたので、取り敢えず新しい徳沢橋から北を見高速道路を写す(12・10・14)
205 85 0 前沢宿 真澄天明8年4月・10月 宿場の面影がある
206 0 増117 前沢 天台永蔵寺・千念寺有 「前沢町足軽甚十郎前(廿人町)」(水沢市史3・730頁)・「ニ十人町北」(前沢町史21頁)。「南(前沢一里塚をさす;引用者)の一里塚は前沢町二十人町生母街道入口の南方二十間位の所に有り」(「旧小山村本郷 先人達の足跡」 千葉寿男著 20頁)) 近所の人に聞いても確認出来なかったので取り敢えずバス停を写す(12・9・15)。小山の一里塚について所在場所の近所のかたがたに話を伺っていたら千葉寿男さんという方もお見えになりその方の著した本を見せていただいた。それに左の記載があった、後日再度調査の要有り(16・11・20)。生母街道入口に行きその辺の人々5軒ほどに尋ねたが何方も知らないとの事(16・11・23)
207 0 増118 小山 折居坂・土橋(の南)長善院(西にあり 「小山村かるた屋敷前(旧小山)大正12年まで西側に杉が植えてあった」(水沢市史3・730頁)・「古城幅」(前沢町史21頁)「古老に聞くと東側の杉は明治時代に消え、西側の一本杉は(等さん宅の門口付近)は昭和初期まで有り、」(「旧小山村本郷 先人達の足跡」 千葉寿男著 20頁)) 千葉さんの記述に従い伊藤等さん宅を訪ね一里塚について聞いたが何も知らないとの事。取りあえず門口付近を写す(16・11・23)・伊藤さん宅のすぐ近く前沢町古城・幅の小沢さんの東の軒下に石の標柱が横になっていた。それには「至前沢町一里7町・里程標19里」と彫られていた。道路を拡幅するとき邪魔になり抜いたものだとのこと。この家の屋号が「根際」だそうだ。(12・10・14)
208 0 増119 真城 (塚の絵あり)八幡宮(の北) 「須江村根岸屋敷前」(水沢市史3・730頁)・「大正11年調査によれば2基残っていた。杉が植えられていた。今西側に1基残っている。真城須江T里塚」(同書735・6頁) 水沢市真城のバイパスと旧道の分岐点の近くの菊地家の庭に枯れた幹の一部と盛り土の跡があった。県の調査した時から大分風化した模様だ(12・9・30写す)・平成15年3月に水沢市教育委員会が案内看板を設置していた。(16・11・20)
209 86 0 水沢宿 真澄天明8年4月14日
210 0 増120 水沢 一方に木無し・水沢出口(の北)・(近くに)幸福寺・当所草履名物 「不断町の北に有ったらしいが確認できない」(岩会14・15頁)・「不断町之外・駒形神社御旅所と推察される。」(水沢市史3・730頁) 水沢市不断町交叉点の少し北に御旅所があった。その石柱を写す(12・9・15)
211 0 増121 八幡 胆沢川(の南)・八幡宮(の北) 「八幡村伊沢川近所・安永3年5月築く」(水沢市史3・731頁) 水沢市佐倉河の八幡神社周辺を調べたが見つからなかった、かつ近所で農作業をしている人にも聞いたがこの辺には一里塚は無かったとのこと。やむを得ずバス停を写す(12・9・30)
212 87 0 金ヶ崎宿 長福寺有 宿場の面影が多少残っていた(12・9・30)
213 0 増122 三ヶ尻 宿内川(のかなり北) 「金ヶ崎三ヶ尻一里塚」(岩会21頁)・「三ヶ尻村の南畑(清水端)」(水沢市史3・731頁) 金ヶ崎町の三ヶ尻に「杉が幹だけ2メートルほど残っている・清水端」(12・6・3写真下)
214 0 増123 岩野目 岩野目坂土橋(からかなり北に向かい)平道曲間有(て)1里塚 「岩の目一里塚」(岩会29頁)・「相去村古城前畑南」(水沢市史3・731頁) 北上市相去町岩の目の近所の高橋さんという方に昔7里塚と言って古い木の根等があったという場所を案内していただいた。今は田圃になっている。そこに氏に立っていただいて写した。そのとき自分が立っている道路が昔の街道だったとのこと(12・9・30)
215 88 0 鬼柳宿 番処家名を名のりて通候 宿場の面影が残っていた(12・9・30)
216 0 増124 黒沢尻 和賀河(の北)・川原に1里塚有と・塚印榎木か可考申 真澄天明5年9月27日 手がかりが無いので北上市の和賀川に架る九年橋の少し下流から川の中島を写す(12・9・30)
217 0 増125 二子 上関しん堰(の北)稲生の社(の南) 北上市村崎野及び糠塚に現存・県指定史跡・昭和40年3月19日(12・4・29写す・写真下)
218 0 増126 成田 飯豊川(の北)・成田川(の南) 真澄天明5年9月27日 「日本橋起点129里」(岩会添付地図「奥州道中4」) 北上市成田に現存。県指定史跡・昭和40年3月19日(12・4・29写す・写真下)
219 0 増127 花巻 豊沢入口(の南)豊沢川(の北)此の塚江戸よりこれまでの塚ぶり也・名物川鮭鱒美濃魚つぶおこし芹わらび畳 真澄天明5年9月・8年10月 「花巻市史(花巻城)」添附の「花巻御城廓図」(文化文政期)には豊沢川を渡ってすぐの所でかつ町入口木戸の手前に左右に木が植わっている 花巻市豊沢町の藤木神社の近くの交差点の北西の角にかってそこに塚が所在したことを示す案内看板がある(12・7・16写す)
天保6年3月2日豊沢町鍛冶屋重五郎家から出火があり家数十九軒その他の大火があった。その時、町外れの塚木(花巻の一里塚)へも引火しそうになったので、塚守が御作事奉行に訴えた。川原の貞助、一日市町の金蔵が火が塚木に燃え移ることを防ぐのに格別の働きをしたので500文づつ褒美を与えた。手伝ったもの他の2名にも200文づつ与えた。この木は古木であり洞穴みたいなところがありそこに火が燃え入りそうだったので、専念寺前の千太というものが木に上がり怪我をしながらも防いだ。手当てとして弐朱与えた。
(花巻市史(資料編花巻城代日誌第8巻)144頁)
220 89 0 花巻宿
221 0 増128 似内
・一方枯れ木・一方 ニカ木・瀬川(の北)
真澄天明8年10月26日 「奥州道中筋・八幡寺林通古図」(文化・文政期)のコピー(市の郷土史講座教材昭和57年)によれば三竹堂(現三嶽神社)から真東に奥州街道に突き当たった所より少し北側に左右に塚がありともに木が植わっている 平成20年7月28日たまたま機会があり宮野目振興センターで一里塚の話をした。そのとき、メンバーの一人畠山さんが似内の一里塚の場所を教えてくれた。西宮野目第11地割117−2に隣接とのこと。20年10月2日畠山さんが案内してくれた。ソコを写す。この一角数坪は今でも官有地とのこと。昭和30年ぐらいまでは3メートルほどの塚があり、「森っこ塚」と呼んでいたとのこと。一里塚の標柱もあったそうだ。「ニガ木が生えていたそうだ。」増補行程記に「一方 ニカ木」と書かれていることと一致する。東側の塚は明治の頃既に木はなかったらしい。昭和8年ごろ耕地整理で塚も崩されたらしい。注:ニガ木はミカン科の落葉高木。きはだともいう。樹皮を漢方で黄柏(おうばく)といい、苦味があり、健胃薬に用いる。きわだ。おうばく。
平成25年6月に宮野目地区の人々が上に示した一里塚の場所を永く保存しようとして、塚の復元を
試み完成した。しかし、保存、管理が難しいこと、および、塚の跡地の管理者(国交省)が、跡地に復元を許可しなかったので止むをえず、その場所から至近の場所に左のような多少小型の一里塚の復元を完成した。地区の人々の手作りの復元だそうです。案内板も設置してくれました。有難うございました。(平成25年9月20日写)
222 0 増129 江曾 黒沼堤(の北) {似内」で参照したコピー図によれば滝沢川の南に左右塚があり共に木が植えられている 江曽一里塚・県指定史跡・昭和40年3月19日・1基現存(12・4・8・写真下)
223 0 増130 石鳥谷 白幡明神社田中に有之候(の北)石鳥谷入口(まで)この間長し 真澄天明5年9月・8年10月 「好地一里塚残っていた西側の1基が昭和27年にとり壊された」(岩会30頁)・二 所在地 稗貫郡好地村大字好地 第6地割五番 官有原野 三 現状 好地村役場から国道に南三町ばかりの所にあり、塚は西側に一個だけ残ってあって其の上に榎が二本植わって居るが、本委員の実測には(甲)地上三尺の処で廻り二丈一尺三寸。(乙)同上八尺三寸五分ある。・・・該榎の運命も危うきものの様であると信ずる。(「史蹟名勝記念物調査報告第三号 大正十二年度調査 岩手県史蹟名勝天然記念物調査会」の復刻「岩手県文化財総覧上」(国書刊行会ー昭和59年)の246頁) 近所の人に聞くと石鳥谷町下町の現在美容院が建っているところとその南側のうちとの間にあったあとのこと(12・6・24写す)・平成17年2月26日偶々花巻人形の展示があるというので、石鳥谷の農業伝承館に行ったら、常設展示の一部として好地一里塚の昭和13年ごろの写真があったので、職員の了解を得て、写した。参考までに下に添えた。(17・2・26)
224 90 0 石鳥谷宿
225 0 増131 日詰 うとう坂(の北)五郎沼(の南)・(西に)観音堂有 「日本橋の元標から134番目が南日詰の陰沼(現在の消防屯所付近)にあり」(紫波町史926頁) 紫波町南日詰の屯所の脇の窪地がその跡とのこと。何か作ろうとして塚を削ったらしい(畠山氏の教示)(12・9・16写す)
226 91 0 郡山宿 宿場の面影有り
227 0 増131 郡山 (原本切損)(五街道中細見記によれば「来こう寺」と「大日堂」の間) 真澄天明5年9月・8年10月 「二日町新田(現在の御幸新道入口北方)にあった」(紫波町史926頁) 紫波町日詰の御幸新道交差点の道の西脇の小高い所に塚の跡を示す標柱あり(12・9・16写す・写真下)
228 0 増133 相野 相野(の北 「相野々にあった。塚の上には榎木を植え付けてあったと言う。相野の村塚の腰にある。民家に「塚」の屋号あり」(矢巾町史668・9頁) 矢巾町相野々の国道の東側に塚の跡を示す標柱あり(12・9・16写す)
229 0 増134 西見前 九万堂(の南)・見前町(の北) 二、所在地 紫波郡見前村国道並木敷地(二)見前町の塚 同上(盛岡・・引用者)二里程のもので同じく(川久保と・・引用者)国道の両側に相対して在る。 三、調査の結果 ・・・又俗称見前町の方は東側は全く堀去られて痕跡を止めるに過ぎないが、同所西側の分は殆ど完全で、築塚当時植えられたと思う榎が実に見事に繁って居たーー旧南部藩においては明暦3年の築塚だとするから、此の榎は将に260年以前のものと知ることが出来る。周囲が一丈二尺あって頭上に巨大な四本の枝が出て天に広がって居るのは実に気持ちがよい。但し南方の宅地主が此の塚の根元を掘って小屋を建て、其の屋内から塚の内部に穴室を掘って居るのが今後の禍であると思ふ・・・せめて此の塚だけはーー大字西見前第十一地割字上畑国道一里塚。・・速やかに其の管理を為さしむることを希望す。(「大正十一年度調査 史蹟名勝天然記念物調査報告 岩手県史蹟名勝天然記念物調査会」の復刻「岩手県文化財総覧上76・7頁」(国書刊行会昭和59年発行)・「西見前一里塚」(岩会33頁) 矢巾町の4号線沿い、バス停見前町と上畑の間のホカホカ亭(道の西側)から50メートルぐらい南の空き地が塚の有った所(近くで稲を刈っていた人の話)とのこと、そこを写す(12・9・16)
230 0 増135 川久保 矢羽々道有(の南) 二、所在地 紫波郡見前村国道並木敷地(一)川久保の塚 盛岡から南方一里程の国道両側・・・・・三、調査の結果・・・・俗称川久保の分は民家が接近して居る為に、三方が掘り取られて国道に面する一方が僅かに原形を保つ有様であるが、道路の東側の物が半分以上は掘り去られて実に哀れな残骸を保って居るばかりである。(「大正十一年度調査 史蹟名勝天然記念物調査報告 岩手県史蹟名勝天然記念物調査会」の復刻「岩手県文化財総覧上76・7頁」(国書刊行会昭和59年発行) 盛岡市川久保交差点近くを調べたが確認できず、取り敢えずバイパスの分岐点近くを写す(12・9・16)
231 0 増136 盛岡 (鍛冶丁(現紺屋町)に石の標杭があった) 真澄天明5年9月・8年10月 鍛冶丁の中程にあり、盛府四方への遠近里数、これよりはかる。元石の表杭ありしが、文化の初頃にや此町火災の為に折れたりと云。又、此町に駅場あり。(「盛岡砂子」星川正甫・天保4年初稿・明治7年改訂・復刻版南部叢書(一)昭和45年発行488頁)・「鍛冶丁(現紺屋町)に石の標杭があった」(図説盛岡400年上巻171頁)・「鍛冶丁となるが、ここの一里塚が街道の元標であった。現在その痕跡は全くないが、その元標のところに表示板が立っている。」(「盛岡の一里塚」草間俊一著16頁) 盛岡市紺屋町に跡を示す石碑あり(12・7・27写す)(下の写真参照)
232 92 0 盛岡(宿)


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 1 花巻このごろ
増補行程記(目次)
 2 増補行程記(はじめに)
 3 増補行程記(リスト1の1)東京都内
 4 増補行程記(リスト1の2)埼玉県内
 5 増補行程記(リスト1の3)茨城県内
 6 増補行程記(リスト1の4)栃木県内
 7 増補行程記(リスト1の5)福島県内
 8 増補行程記(リスト1の6)宮城県内
 9 増補行程記(リスト1の7)岩手県内
10 増補行程記(リスト2

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