日々の出来事  2月  (岩手日報より)


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2月28日

 1957年(昭和32年)
  ソ連砕氷船が宗谷救出
    厚い氷群で立ち往生していた日本の南極観測船「宗谷」がソ連砕氷船「オビ号」の救援を受け、
   随伴船が待つ外洋への脱出に成功、2週間ぶりに航行可能となった。オビ号は巨体で厚い氷を
   押し割りながら宗谷を先導し、10時間近くかかって外洋に出た。

 1935年
  「ナイロン」が誕生
    米最大の化学メーカー、デュポン社の有機化学者ウォーレス・カロザーズがポリマー66(ナイロン)の
   開発に成功した。同社は40年から婦人用靴下の販売を開始したが、この新繊維は「20世紀の驚異」と
   歓迎され、繊維・服飾業界に革新的変化をもたらした。


2月27日

 1949年(昭和24年)
  松山城が焼失
    四国の国宝・松山城で本丸入り口の筒井櫓(やぐら)付近から出火、折からの強風にあおられ、
   筒井門、筒井櫓、続櫓、戸無門、隠門などを焼失した。天守閣と乾櫓、北櫓は無事だった。
   原因は放火と判明。前月には法隆寺金堂で火災があったばかりだった。

 1933年
  ドイツ国会議事堂燃える
    ドイツ・ベルリンの国会議事堂が放火で炎上した。放火犯として共産党員のオランダ人青年が
   現場で逮捕されたが、非常権力を握る口実を必要としていたナチス政権による放火との見方が強かった。
   政府はこれを機に共産党の弾圧を開始、約4000人を逮捕した。


2月26日

 1969年
  ヤスパースが死去
    ドイツの世界的な実存主義哲学者カール・ヤスパースがスイスのバーゼルで死去。86歳。
   当初は精神医学の道を歩んだが、マックス・ウェーバーとの親交を機に哲学に転じ、
   実存主義哲学の第一人者となった。著作に「現代の精神的状況」「実存哲学」などがある。

 1964年(昭和39年)
  産業スパイ事件を摘発
    東京地検特捜部が、白系ロシア人ジョージ・テレンチョフら3人を恐喝などの疑いで逮捕、
   情報化時代の初の産業スパイ事件を摘発した。容疑者は62年ごろから大日本印刷の機密書類を
   不正に入手。同社を脅したり、競争会社に売って多額の謝礼金を受け取っていた。


2月25日

 1947年(昭和22年)
  客車転落184人死亡
    埼玉県の国鉄八高線・高麗川駅付近で6両編成列車の後部4両が脱線して高さ5メートルのがけ下に
   転落、食料買い出しの乗客など184人が死亡、500人以上が重軽傷を負う惨事となった。
   現場は、急カーブの下り坂。木造客車だったことが被害を大きくした。

 1913年
  米で累進所得税
    米国務長官ノックスが、合衆国憲法第16条の修正を公布、所得税の累進課税実施が可能となった。
   従来は人口比に応じて各州に課せられるものだったが、修正により、年収3000ドル以上の高額所得者に
   対しては累進所得税を課する権限が連邦議会に与えられた。


2月24日

 1988年
  初のバルカン会議が開幕
    ユーゴスラビアなどバルカン半島6カ国の外相が史上初めて一堂に会するバルカン会議が
   ベオグラードで開幕した。孤立政策をとってきたアルバニアの国際舞台復帰の場となった会議は26日、
   外相会議を定期開催することなどを盛ったコミュニケを出し閉幕した。

 1933年(昭和8年)
  国際連盟脱退を宣言
    ジュネーブでの国際連盟総会が、「満州国の不承認」などを内容とする対日勧告案を採択した。
   このため、日本の首席全権松岡洋右は「連盟との協力は限界に達した」と脱退を宣言して退場。
   枢密院本会議の可決を受け、日本は3月27日、正式に脱退を通告した。


2月23日

 1981年(昭和56年)
  ローマ法王が初来日
    ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が羽田空港に到着、歴代法王の中で初めて来日した。
   4日間の滞在中、後楽園球場で3万6000人を集めたミサを行ったほか、武道館での若者との対話集会、
   広島・長崎訪問などを精力的にこなし「行動する法王」を印象づけた。

 1942年
  ツバイクが自殺
    絶対平和主義者として知られたオーストリアのユダヤ系作家シュテファン・ツバイクが亡命先のブラジルで
   服毒自殺した。詩人として文壇に登場したが、評伝・伝記小説で優れた作品を残した。
   代表作に「マリー・アントワネット」「エラスムス」など。


2月22日

 1983年
  インドシナ首脳会議を初開催
    ベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ3国による第1回首脳会議がラオスの首都ビエンチャンで
   始まった。翌日の閉幕に際し、採択された声明は3国の伝統的友好に基づく「特別な関係」を強調。
   ソ連など社会主義諸国との連帯強化などを打ち出した。

 1932年(昭和7年)
  「肉弾3勇士」が戦死
    上海戦線で日本軍が廟行鎮の中国軍への総攻撃を開始した。3人の工兵が中国側の攻撃を受ける中、
   決死の鉄条網爆破工作を成功させ、歩兵の突撃路を開いたが爆発で死亡。3人は陸軍省から顕彰され、
   「肉弾3勇士」の美談は映画・舞台などで取り上げられた。


2月21日

 1965年
  マルコムX暗殺される
    米国の戦闘的な黒人開放運動指導者マルコムXがニューヨークで暗殺された。39歳。
   ハーレムでの演説集会で「諸君に平和を」と呼びかけた際、3人の男が演壇に突進。
   至近距離から銃を発射した。反人種差別団体を組織、カリスマ性で黒人の人気を集めていた。

 1911年(明治44年)
  文学博士号を辞退
    「吾輩は猫である」などの作家、夏目漱石が、文学博士の授与を辞退するとの書面を文部省に送った。
   学位を授与するので出頭してほしいとの同省からの文書に回答したもので
   「これからも、ただの夏目なにがしで暮らしたい」というのが理由だった。


2月20日

 1977年(昭和52年)
  青梅マラソン世界一に
    東京の青梅市で第11回青梅マラソン大会が開かれ、全国から史上最高の1万710人が参加した。
   67年の開始以来、「健康ブーム」などを反映して参加者は年々増加。女性、高齢者、外国人の姿も目立ち、
   ついに1万人を越える世界一のマンモス大会となった。

 1935年
  天才子役に特別賞
    米国で第7回アカデミー賞授賞式が行われ、6歳の天才子役シャーリー・テンプルが特別賞を受けた。
   映画「或る夜の出来事」が作品賞など5部門で受賞したが、この日の主役は「可愛いマーカちゃん」などに
   主演した全米のアイドル、シャーリーだった。


2月19日

 1954年(昭和29年)
  プロレスに熱狂
    日本で初の本格的なプロレスリング国際試合が東京・蔵前国技館で始まった。初日のメーンイベントは
   力道山・木村政彦組対米シャープ兄弟のタッグマッチ。結果は引き分けに終わったが、
   関東各地に設置された街頭テレビの前はどこも黒山の人だかりとなった。

 1951年
  アンドレ・ジードが死去
    フランスのノーベル賞作家アンドレ・ジードがパリの自宅で死去。81歳。
   マラルメ門下の象徴派作家として1891年に「アンドレ・ワルテルの手記」でデビュー。
   以後、人間の絶対的自由を追い求め、「背徳者」「狭き門」「贋金づくり」などの代表作を残した。


2月18日

 1953年
  オーストラリア女王を指名
    オーストラリア下院が、英女王エリザベス2世をオーストラリア女王に指名する法案を可決、
   その手続きを終えた。歴代の英国王の中でこの称号を受けたのはエリザベス女王が初めて。
   しかし、通常は首相の指名で選ばれる総督が王権を代行、内閣任命などを行う。

 1935年(昭和10年)
  天皇機関説を攻撃
    貴族院で、菊池武夫議長が、同じ貴族院議員の東京帝大名誉教授、美濃部達吉らの著書に国体破壊の
   憲法解釈があると攻撃した。特に美濃部の「天皇機関説」が問題となり、美濃部は25日に弁明演説を
   行ったが、その後不敬罪で起訴され、著書は発禁処分となった。


2月16日

 1977年(昭和52年)
  対米繊維輸出を自由化
    日米繊維協定第3年度について交渉を進めていた両国政府が、日本の対米輸出規制枠を全廃すること
   などで合意、ワシントンで書簡を交換した。合繊糸、綿、毛製品などの規制枠をすべて撤廃する内容で、
   日米繊維戦争を機に成立した同協定は実質的に廃止された。

 1936年
  人民戦線が大勝
    スペイン総選挙で、人民戦線派が473議席中、265議席を獲得して大勝した。人民戦線は19日、
   マヌエル・アサーニャ内閣を発足させたが、地方に左遷されていたフランコ将軍が7月にクーデターを宣言。
   各地で反乱軍が蜂起しスペイン内戦が始まった。


2月14日

 1967年(昭和42年)
  山本周五郎が死去
    「樅ノ木は残った」などで知られる作家、山本周五郎が横浜市の旅館で死去。63歳。
   失意、絶望に沈む人間がどう生きたかなど普遍的な人間らしさを追求。権力、賞などを嫌い、
   「日本婦道記」の直木賞、「青べか物語」の文春読者賞などすべての賞を辞退した。

 1929年
  聖バレンタインデーの虐殺起きる
    殺人事件が相次ぐ米シカゴで聖バレンタインデーのこの日、密造酒業の独占権をめぐり、
   禁酒法を無視して暗躍するアル・カポネと抗争を続けるオバニオン一家のメンバーら7人が惨殺された。
   しかし、カポネのアリバイは鉄壁で、犯人は不明のままに終わった。


2月13日

 1983年(昭和58年)
  男子米ツアーで初勝利
    ゴルフの男子米ツアー、ハワイアン・オープン最終日のこの日、日本の青木功が通算20アンダーで
   日本人として初の男子米ツアー優勝を決めた。17番で青木と並んだJ・レナーは18番でバーディー。
   対する青木は距離117メートルを残しながら、劇的なイーグルを沈めた。

 1958年
  ルオーが死去
    深い宗教性と重厚な画風で知られたフランスの画家ジョルジュ・ルオーが死去。86歳。
   パリの国立美術学校でモローに師事。道化師や辻芸人など社会の底辺に生きる世俗な人間を通じて
   崇高な聖性を表現した。「ミゼレーレ」など版画の連作でも有名。


2月12日

 1954年(昭和29年)
  本多光太郎が死去
    物理学者の本多光太郎が都内の病院で死去。83歳。鋼鉄研究のためドイツなどに留学。
   帰国後、東北大教授として鉄鋼物性の研究を重ね、高温・衝撃に強い、世界一強力な磁石鋼
   「KS鋼」を生み出した。しかし、国内に需要がなく、特許は米企業に売却された。

 1941年
  ロンメル将軍がリビア上陸
    ドイツのアフリカ軍団新司令官ロンメルが、リビアのトリポリに上陸。14日には軍団の第1陣も到着した。
   前年5月の対フランス戦線での活躍で、国民的英雄となった将軍は以後、枢軸国側の事実上の
   司令官として北アフリカ戦線で連合軍の手ごわい相手となった。


2月11日

 1929年
  バチカン市国が成立
    イタリアの近代国家統一ですべての領土を失って以来、同国と50年以上対立を続けていた
   ローマ法王庁がムソリーニ政権との間で「ラテラノ条約」を締結して和解、バチカン市国が成立した。
   バチカンの主権確立により、法王の諸外国との自由交流が可能となった。

 1928年(昭和3年)
  日本が冬季五輪に初参加
    スイスのサンモリッツで第2回冬季オリンピック大会が開幕した。参加したのは25カ国の495人。
   日本も役員1人と高橋昂らスキー選手6人を派遣、初参加した。大会の人気をさらったのは、
   フィギュアスケートで優勝した15歳のソニア・ヘニー(ノルウェー)。


2月9日

 1950年
  米国でマッカーシー旋風
    米共和党上院議員ジョゼフ・マッカーシーが党の婦人集会で「国務省は共産主義者に荒らされている」と
   演説。これを機に全米規模で反共・赤狩り旋風が吹き荒れた。その後、政府の共産主義活動調査小委員長
   となり、一時は大統領に匹敵する権限を振るった。

 1932年(昭和7年)
  前蔵相暗殺される
    民政党筆頭総務で前蔵相の井上準之助が、東京・本郷での総選挙応援集会で至近距離から
   短銃を撃たれ、暗殺された。犯人は、「1人1殺、1殺多生」のスローガンを掲げ、暗殺で社会不安を
   引き起こした上で国家を改革しようとする「血盟団」の一員だった。


2月8日

 1958年(昭和33年)
  ロカビリーに若者殺到
    東京・有楽町の日劇で「第1回ウエスタンカーニバル」が始まった。夜明け前から若者が日劇に押し掛け、
   入場者は初日だけで9千5百人。「ロカビリー3人男」などのステージに酔った。1週間で観客4万5千人を
   動員。この舞台から多くのスターが育った。

 1955年
  マレンコフ首相が失脚
    「赤いプリンス」と呼ばれ、雪解け外交と国民生活向上に努めてきたソ連首相マレンコフが最高会議に
   辞表を提出、受理された。スターリン死去の翌日に首相となってから2年足らず。
   辞任の理由は、共産党の実権を握るフルシチョフ第1書記との対立とみられた。


2月7日

 1981年(昭和56年)
  「北方領土の日」で集会
    初の「北方領土の日」となったこの日、領土返還運動を盛り上げるための行事が東京、根室、札幌などで
   催された。東京の全国集会に参加した鈴木首相は、北方四島問題でソ連を批判。
   9月には、現職首相として初めて空から北方領土を視察した。

 1920年
  ロシア反革命の提督を銃殺
    旅順港での機雷作戦指揮で勇名をはせた前全ロシア臨時政府(オムスク政府)最高統治者
   コルチャック提督が、イルクーツクで銃殺刑に処せられた。反ソビエト政権樹立を目指したが、
   赤軍の反撃で敗退。逃亡中に捕まり、革命委員会に死刑を宣告されていた。


2月6日

 1989年(平成元年)
  初のアラビア語版刊行
    黒柳徹子著の大ベストセラー「窓ぎわのトットちゃん」のアラビア語版がエジプトの有力出版社から
   刊行され、アラブ各国の書店に並んだ。日本の本がアラビア語に翻訳され、本格的に出版されたのは
   初めて。その後、ベトナムなどでもベストセラーとなった。

 1918年
  クリムトが死去
    世紀末ウィーン芸術の代表的画家グスタフ・クリムトが脳卒中のため、ウィーンの病院で死去。55歳。
   顔だけを彫刻的にリアルに表現、衣類や背景は装飾的に平面構成する「クリムト様式」を完成。
   典雅な貴婦人の肖像画などを残した。代表作に「ダナエ」など。


2月5日

 1990年
  1党独裁を放棄
    ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が党中央委員会総会で演説、党の指導的役割を規定した憲法条項の
   削除を提案した。これは1党独裁を決めたレーニンの原則を修正、複数政党制に道を開くもので、
   その後、大統領制導入案とともに圧倒的多数で可決された。

 1936年(昭和11年)
  プロ野球が発足
    日本職業野球連盟が東京巨人軍、大東京軍、大阪タイガースなど7チーム加盟で発足した。
   9日、巨人軍と名古屋金鯱軍が名古屋・鳴海球場でプロ同士として初めての試合を行い、
   金鯱軍が10対3で勝利した。この試合は名古屋ローカル放送により実況中継された。


2月4日

 1945年
  米英ソがヤルタ会談
    米大統領ルーズベルト、英首相チャーチル、ソ連首相スターリンが黒海沿岸のヤルタで戦後新秩序に
   ついて協議を開始した。11日までの会談で3巨頭は、第2次大戦後の平和維持のための世界機構として
   大国の拒否権を導入した国連を設立することなどで合意した。

 1907年(明治40年)
  足尾銅山で大暴動
    栃木県の足尾銅山で採鉱作業員と現場係員が衝突、大暴動に発展した。作業員900人はダイナマイトで
   見張り所7カ所を爆破、坑内に立てこもった。賃上げ交渉のもつれが原因で、7日に3個中隊が出動、
   鎮圧したが、暴動はその後、幌内炭鉱などに波及した。


2月3日

 1926年
  マラソン・ダンス大会を開催
    米ニューヨークのダンス学院で、全米でブームとなっているチャースルトン・ダンスのマラソン・コンテストが
   開かれ、この日夜10時半まで22時間半踊り抜いた23歳のジョン・ジオイアが優勝した。参加者は16人。
   優勝者には銀カップなどが贈られた。

 1901年(明治34年)
  福沢諭吉が死去
    教育・思想家で慶応義塾創始者の福沢諭吉が死去。66歳。常に世論をリードした啓蒙思想家で、
   その著「西洋事情」は幕末から明治初めの大ベストセラーに。独立自尊と実学を訴え、
   後に脱亜入欧・官民調和を説いた。代表的著作に「学問のすゝめ」など。


2月2日

 1979年(昭和54年)
  谷口吉郎が死去
    東宮御所や文学者の墓碑まで幅広い設計活動で知られた建築家、谷口吉郎が都内の病院で死去。
   74歳。東工大教授の傍ら、島崎藤村記念堂、帝国劇場、東京国立近代美術館などの代表作を残し、
   芸術院賞、文化勲章を受けた。「雪あかり日記」など随筆集も出した。

 1935年
  初めてうそ発見器を使用
    米ウィスコンシン州の裁判所で、公判中の暴行事件の被告の証言に対し、初めてうそ発見器が
   使用された。このうそ発見器は、シカゴにあるノースウエスタン大科学犯罪捜査研究所の
   レナード・キーラー教授が開発した「キーラー・ポリグラフ」だった。


2月1日

 1922年(大正11年)
  山県有朋が死去
    元老の山県有朋が小田原の別邸で死去。83歳。長州出身。松下村塾で学び、1868年に欧米を
   視察して徴兵令を制定。73年に陸軍卿として参議を兼ね、日清、日露両戦争では指揮も執った。
   枢密院議長、元老として権力を振るい、2次にわたり内閣を組織した。

 1908年
  ポルトガル国王暗殺される
    ポルトガル国王のカルロス1世とフェリペ皇太子(長男)が、リスボン市内の路上で暗殺された。
   この後、18歳の二男がマヌエル2世として即位。ジョアン・フランコ首相の独裁政治の改革に
   乗り出したが、10年10月の共和主義者のクーデターで英国に亡命した。


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