たか が綴ってみた賢治さんへの想い、色々…

 私の勝手な想像や思い込みも含めて、賢治さんへの文章を綴っていきまする…。定期的に更新しながら、古い物はバックナンバーとして小さく保存しておきませう、ね。

 

第15回 賢治さんは呆れてる?

 ご存知の方もいらっしゃるのでは?花巻市に博物館を造ろうとした所、その場所から、古代の象の「足跡の化石」が発見されたのです。足跡の化石、って、とても貴重で、珍しいそうですね。奇跡とも言える出現、発掘に、博物館の推進者である、花巻市のお役人の方々はみんな「目玉の展示品の1つになるぞ!」と喜んでいらっしゃるか、と思いきや、全く逆だったのですなあ。

 計画(スケジュールやら、建物やらもろもろについて)の変更の必要が出て来たから、早い話し、面倒なようです。(確かに大変でしょうが)

 最初の頃はヒドイ意見が出てまして「そんなモノ、さっさと埋めて戻してしまえ」という主旨でした。市民からは「大事に守れ〜!」という声が多く出て来たものだから「はがして模型にして展示する」など、少しずつ論調が変化しつつも、花巻市としては、「象の足跡の化石」を積極的に守ろう、という姿勢が無い、薄い、という印象を持たざるを得ません。

 今の段階では(花巻市長の話しとして)一部を模型、標本として展示して、残りは埋めて戻して、その上に博物館を建てて「永久保存」する方向、となっています。何もしな事、誰の目にも触れさせず、やがて忘れ去られてしまう方向づけになりそうなのが残念ですな。

 風化の問題があるのなら、建物の設計を一部直して、土の部分をそのままで、建物の中に収められるように工夫すれば良いと思うです。(もち、シロートの愚論かも知れないけど)プロなら、素晴らしい技術や知恵を持っているだろうからね。

 「オッペルと象」など、賢治さんも、象と縁あるし、無理矢理こじつける訳では無いですが、この悶着を、どういう感想で見守っていらっしゃるか?またまた興味があるのでした。

 ま、この問題は、市民として声を出し続けて、良い方向での決着の力になりたい、と思ってました。

 

第14回 賢治さんも空から苦笑い?

 ご覧になった方もいらっしゃるでしょうかね?先日(2000年10月27日)フジテレビ系列の2時間ドラマ(浅見光彦シリーズ、っていうのですか?)で、花巻を舞台にした殺人事件が放送されておりましたわい。

 小説の存在は内田康夫さんを好きな友人から聞いていたので、それはそれで良いのだろう、とは思っていたものの、小説では、ちゃんと、一関市の喫茶店として描かれている「ベイシー」(ジャズの世界では日本中でも有名なお店)が、花巻にあるように扱われていたのは、ちょいと失礼であろうなあ、と、思った私。(ドラマですから、仕方ないと言えば、それまでですけどね)

 ご当地ドラマの常だとは思いますが、不自然な訛りなど、地元の人間には耳障りなトコロがいっぱいで、私はまともに見てません。(見るに耐えなかった?)ただ、同級生が一瞬、「役者」として登場していたので、そこだけはチェック!しましたのです。

 賢治さんは空から見ていて、どう思ったのだろうなあ?と、感想を聞きたくなったのでした。なんであれ、賢治さんの名前やイーハトーブが、殺人事件のダシにされたんですからねえ。そして、多くの賢治さんファンもどう、感じられたか?

 ただ、これまで賢治さんに興味も関心も無かった方が、これをキッカケにして文献に目を通して下さり、岩手に、花巻に来て下さったら、嬉しいですね。それだけは、素直に思います。

 

第13回 秋は誰でも賢治さん!(になれると思うのです)

 すっかり秋!朝晩は寒いくらいに冷え込む岩手です。スポーツの秋、読書の秋、そして芸術の秋。秋は何をするにも何に取り組むにも良い季節ですよね。特に、恋愛は誰の事でも詩人に変える、ってな意味の名言があるごとく、秋、という季節も、皆の事を芸術家に変えてくれる季節ではないか?と思うのです。

 そして、私とすれば、やっぱり秋こそ賢治さんに少しでも近づける季節だと思う次第。1年に1度でもいいから、少しの期間だけでも良いから、賢治さんのエッセンスを感じられる時を過ごしたモノと思って毎日の中で見る風景、耳にするさまざまな音、そして出会う人々との触れ合いなどを、何らかの形で表現したいなあ、と思っています。

 文字(雑文、詩、俳句)、画像(写真、イラスト)、やれば色々できる筈だもんね。そして、これは勿論、私だけではありませぬ。み〜んなみんな、きっと素敵な表現ができる秋だと信じています。

 今年の賢治祭は仕事でよそに行っていたため全く参加できなかったけど、参加できた方々は何かを感じたと思いまする。

 20世紀最後の秋だし、何かを表現して、賢治さんに上から鑑賞してもらいましょ!

  

第12回 銀河鉄道は21世紀目指して

 今年(2000年)は、JR釜石線の開通をお祝いする年なのだそうです。そのルーツとなった岩手軽便鉄道が、「銀河鉄道の夜」のモデル、というか、賢治さんのイメージの土台になった事は今更言うまでも無い事なのでしょうが。

 今年も又、釜石線をSLが走る筈です。ここ10年くらい、夏、もしくは初秋のイベントとして実施されている「銀河鉄道ドリーム号」なんですよね。私は乗った事が無いのですが(チケットが人気で入手できないだけなんですが)、写真は何度か撮影してます。(写真コーナーに少し載せてます)

 きっと、今年も大勢のお客さんを乗せて、沢山のカメラマンに写してもらう事でしょう。20世紀最後の終電銀河鉄道、という訳だし、来年は21世紀の銀河鉄道として始発列車になるのですわな。こりゃ、来年は乗りたいもんだなあ、とムクムク思い出しているのでした。

 岩手県内県外問わず、興味のある方は、そしてチケット入手可能な方は、是非乗ってみて楽しんでみて下さいな。(ついでに感想を教えてもらえたら、ありがたいかな、ははは)

 私は21世紀から、乗ろう!

 

第11回 セロ弾きのゴーシュには、カエルはいないかあぁ〜。

 最近(6月)になりますと、私の住む花巻近辺はまだまだ田んぼがいっぱいですからね。夜になるとカエルの大合唱でにぎやかで、いいですよおぉ。(と言ってもね、都会から引っ越しされて来たばかりの方々なんかは「騒音」と感じる方もいらっしゃるようで・・・)

 私のように昔から耳にしている者にとっては心地よい季節の「定番」なんですわな。全然うるさいと思わないし。松尾芭蕉が蝉の鳴き声が「岩にしみいる」と表現されている訳ですが、私なんかにはカエルの鳴き声は「夜空にしみいる」って感じですね。

 ところで、セロ弾きのゴーシュには、沢山の動物達が登場しては、ゴーシュと一緒に演奏のお稽古をするのですが、考えてみるとカエルなんか、1番身近な「演奏家」(声楽家、かな?)だと思うのですが、なんで登場させなかったのでしょうね?勿論、他の物語でカエルは登場しますけどね。

 べつだん、たいした問題でも無いでしょうが、賢治さんが物語を考えてらした時期が冬だったりして、カエルが冬眠していた頃だったのかなあ?なんて、とりとめなく考えをめぐらせたりしてみる私なのでした。さて、真実はいかに?

 ゴーシュなら、カエルの合唱団を上手に指揮してあげたかな?

 

第10回 それぞれの呼び方でいいぢゃあない!

 私の場合は「賢治さん」って常に呼びますが、これは、私なりに賢治さんに親しみを感じているから。以前勤めていた会社でもって社長に「歴史上の人物、過去の人物に敬称を付けるのはおかしい!馬鹿者!」と言われた事があったのですがね。「私にとって賢治さんは過去の人ではないですし、思い入れは人それぞれなのですから、そんな事を他人に干渉される必要はありません!」と突っぱねました。(その会社は後で辞めました。別にこれが理由ではありませんが。(^0_0^))

 花巻で多いのは「賢治先生」という呼び方。実際に賢治さんの教え子だった方もまだご健在ですし、花巻農学校を現在に継承している、花巻農業高等学校の関係者(先生方、OB、OG、在校生の皆さんなどなど)の多くは、「先生」と呼びますね。これはこれで、とても素敵だなあ!と思いますねえ。ホント、今も沢山いらっしゃいますもんね。

 勿論、歴史上の人物として「賢治」と呼ばれる方々も多いですよね。私も、徳川家康や伊藤博文は呼び捨てしますよね。全くの歴史上の人物としてしか接点が無いですから。でも、賢治さんは色々な所で、色々な事で接点があるから、やっぱり「近い人」って思ってしまうのですよね、私は。

 本当は失礼なのかも知れませんけど、私はこれからも賢治さん、って呼ばせてもらいます。

 皆さんは、賢治さんをどう呼んでますかあ?

 

第9回 花巻の街は語り部でいっぱい!

 街をぶらぶらしていたり、お馴染みのお店で油を売っていると、なぜか出会ってしまうのが、賢治さんゆかりの方々。こないだお会いしたのは「バナナン大将」の息子さん(?)

 なにか?と言いますと、お父様が賢治さんの農学校の教え子でもって、演劇の「バナナン大将」で、主役の「大将」を演じられたのだそうな。その模様も含めて、花巻や遠野がNHKのテレビ番組「新日本紀行」でもって放送されたのが昭和40年だそうです。

 へー!と、その場では半信半疑(失礼ですね、私は!)で聞いていたのですが、たまたま岩手局でもって3月に再放送されたのですわい。出ました出ました!本当でしたよお!

 バナナン大将を演じられたお父様、溺れて危ない目に遭われたそうですが、その際には賢治先生始め、先生、生徒、皆さんが大変心配されたそうですわ。人気者だったようですねえ。だから主役も務めたのでしょうねえ。

 これってスゴイですよね。本に残る前、戯曲として作った直後に主役を演じられたお父様をお持ちなんですから。とても素敵な「賢治さんの子供達」のお一人ですよね。

 こんな方々と出会ってお話しするのが楽しくて、今日もブラブラの私な訳です。今度はどこでどんな語り部の方と会えるでしょうね?

 

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第8回 賢治さんはコンピュータを知っていた?

 賢治さんの物語や文章の中に、とても不思議な描写や表現がある事、有名ですよね。今回はコンピュータについて。

 グスコーブドリのお話しに、火山を制御するセンターが登場しますが、その施設の内部の描写に、コンピュータやテレビの画面(ディスプレイ)としか思えないような機械の説明や、そこに表示される数字が画像の様子が出て来るのですよ。

 我々が現代に生きて、先にディスプレイの存在を知っているから、先入観でもって、似ている、と決めつける所もあるかも知れません。

 でも、賢治さんの時代にはパソコンもテレビも無かったのですよね。そこで何をどうイメージすれば、ディスプレイという存在や、その使われ方が頭に浮かんで来るのでしょう?

 私には謎ですねえ…。

 ちなみに、今、賢治さんが生きていらしたら、どうでしょう?私の独断で考える限り、賢治さんはMacを使っていらしたのではないかなあ?ハハハ。

 では、又。

 

第7回 賢治さんのユーモア

 これもご存知の方、多いかも。賢治さんが先生だった時のお話しです。英語の授業で、賢治さんは生徒さんに尋ねました。「英単語の中で、1番、『長い』言葉は何でしょう?」って。

 生徒さん達は一生懸命に辞典を調べて、あれやこれや文字数を調べながら、『長い』単語を挙げたそうですが…。賢治先生はなかなか良い、と言ってくれません。もっともっと長い単語があるから、という事なのです。

 途方に暮れた生徒さん達に向かって賢治さんは、こう言いましたとさ。「SMILES」とね。何故?たった6文字なのにね。

理由は簡単、最初のSと最後のSの間にMILE(1マイル=約1.6キロメートル)があるから、なんだって。

 とんち、そして、ユーモアにあふれた賢治先生の授業の様子の一端、うかがい知る事のできるお話しだと思いませんか?

 

第6回 銀河鉄道の夜は、幻想的な光景からのイメージと悲しい事故の記憶から生まれた物語

 これはご存知の方、多いかも知れませんね。銀河鉄道の原点は現在のJR釜石線の元になった、岩手軽便鉄道です。単線の線路を蒸気機関車が走っていた訳です。当時は夜の街灯も少なかったでしょうから、最終便が走る頃の列車は、まさに星空の中を飛び続けるように見えた事でしょう。

 そして、ジョバンニとカンパネルラの2人を狂言回し、かつ主人公にしての物語、結末は、賢治さんが子供の頃、2人の子供が川に落ちて流され、1人は助けられたものの、もう1人は亡くなってしまった、という事故を、ずっと憶えてらしたのか、いつの日か思い出されたのか、分かりませんが、それを基にして作られた訳なのです。

 イメージと記憶、悲しい事実が背景にあるだけに、まさに宇宙空間の持つ果てしない奥深さを表現した、とても童話、と言い切れない物語になった理由なのでは?と思う私です。

 

第5回 岩手で開催された全国菓子博覧会にちなんで、賢治さんとチョコレートの関わり

 賢治さんの事ですから、新しい物には何でも興味を持って、見たり手に入れたり、としていた事でしょう。お菓子の中では、どうやらそれがチョコレートだったようです。

 銀河鉄道の夜を始め、いくつかの作品の中で、チョコレートや、その味について記述されているのは、きっとチョコレートを気に入られた証なのでは?と思っています。結構その頃は値段も高くて、余程の決心をしてからではないと買えなかったと思いますから、その分感じた事想った事を表現せずにはいられなかったのかも知れませんね。

 先生時代であれば、きっと学生さん達にも食べさせてあげたのではないかなあ?最初は奇妙に思われたでしょうかね。でも、甘い味が決めてになって、人気が出た事でしょうね、きっと。他にもそんなお菓子があったかも知れませんね。それを探求するのも面白いかも、ね。

 岩手県で開催されていた全国菓子博覧会にも、岩手とお菓子の歴史を紹介するコーナーで、この事も紹介されていましたよお。

 

第4回 セロ弾きのゴーシュのモデル、実在されてた方なんですよお!

 セロ弾きのゴーシュの、ゴーシュって賢治さん自身がモデルだと、ずっと子供の頃から思ってました。賢治さん自身がセロを持っていたのですしね。でも、賢治さんはヘタだったそう。ドレミを満足に弾けたかどうかも怪しかったそうです。でも、その方が親しみ感じるなあ。

 で、実は賢治さんのお家のすぐそばに、とってもセロの上手な方がいらして、賢治さんはしょっちゅう遊びに行っては、セロの演奏を聴いてらしたそうです。だから、ゴーシュって、最初の頃のヘタな部分は賢治さん自身がモデルだけど、最後に見事な演奏をする部分は、この方がモデルなのだと思いますよお。

 賢治記念館がオープンした当時、家族の方々が、セロを寄贈されたそうで、館内には賢治さんのセロが飾ってあるけど、蔵の方にでも、その方のセロ、保管されている筈です。

 そう、賢治さんはきっと、近くにいらっしゃる素敵な方々を主人公にして、沢山のインスピレーション浮かべて、お話しに登場させているのではないかなあ?って思っている、私です。当時の花巻の人々は皆貧しくて、賢治さんが、何から何まで「啓蒙」していた、みたいな論調には抵抗あるんです。きっと沢山の素敵な方々が、賢治さんに刺激を与えた部分もある筈だと思う、私です。

 

第3回 “あの写真”って、賢治さんが物真似してる所、なんですよお〜!(描いた世界の、イラスト参照、です…)

 そうそう、賢治さんの型破りな所、って知識や物語だけに留まらず、周囲の方々の事もおおいに巻き込んでいたんですよお。それが、皆さんご存知ですよね、有名な賢治さんのポーズ写真。うつむいて、まるで何か物思いにふけっているかのような様子で、実際、賢治さんが思索している姿、として紹介される事も多いのですが、違うんですね、あれは…。

 あれ、賢治さんが大好きだったベートーベンの真似をしているんですよお!学校の音楽の教科書なんかに載ってませんでした?黒いコートだかマントみたいなのを羽織ったベートーベンの姿。賢治さんは、あれを真似して、無理矢理写真屋さんに頼んで写して貰った写真なのだそう。写真屋さんが嫌々だったのは、当時の常識として、写真は直立不動でまっすぐにカメラに向かうモノだったから。今で言えば、街中で突拍子も無いポーズを取っている姿を撮らされているような感じなのだから…。

 賢治さんって、面白い、明るい人だったと私は思っています。勿論、色々思索にふける面も持っていた、多才で、多彩な人だったのだろうな、ってね。

 皆さんはどう思います?

 

第2回 “風の又三郎”の演劇を見る時のお楽しみは、ここ!(これ、描いた世界の、イラスト参照、です…)

 又三郎のお話し、多くの方々は「風」や「マント」など、とにかく又三郎をメインに想いを馳せませますよね、きっと。

 花巻に住んでいた、たか達の年令層の者にとっては、子供の頃の数少ない娯楽の1つが、賢治祭のかがり火の中で行われた、花巻農業高校の方々の演劇だったのです。で、風の又三郎が演じられる事が多かった気がするのですが、観客が見ているのは、私のイラストで言えば、不思議がっている子供達の側からなんです。そう、学校のセットの外から、ガラスを通して教室の中にいる「謎の少年」を誰だ?って思いながら見守るのですが…。

 「あ、いない!」と言うセリフに「はっ!」と気付くと、さっきまでいた筈の「謎の少年」がこつ然と消えているんですよねえ…。その瞬間、観客はどよめく訳。引き込まれている証拠ですね。私も3回目位に見た時には「謎の少年」が身体をかがめるか何かして、窓から消える瞬間を見届けてやろう、と気合いを入れて見つめていたんですけどねえ…。上手いんです、演出家の腕の見せ所なのでしょう。何か、観客全員の目をそらさせるセリフやら演技をさせて、そちらに気が向いた瞬間にパッ!とね…。

 だから、たかの目標。今度又三郎の劇を見る機会があったら、是非「その瞬間」を見抜いてやろ〜!ってな所な訳です。でも又、まんまと引っ掛かってしまうのも、楽しいでしょうね。

 あのイラストは、そんな私の想いの表現です。

 

第1回 “雨ニモマケズ”は高尚な精神だけで書かれた物なのでしょうか…?

 とても有名な“雨ニモマケズ”ですよね。賢治さんの事を扱うメディアのほとんどが、まず、とっかかりとして、この言葉から入りますもんねえ。有識者の方が語る時、必ず語られるのが“法華経の精神”。それから、これは賢治さんにとっての一種の“遺書”のような存在だ、と言う方もいらっしゃるようですね。

 これを詩として扱う事が多いようですが、賢治さんはご自分の短文を“心象スケッチ”と呼んでらしたそうで、これもその中の1つなのでしょう。元々メモ帳に書き残していた物であるため、逆にその未完成っぽさが触れる人々の想像力をかき立てるのでは?と思います。

 “ヒデリ”か“ヒドリ”か、との論争がありますけれども、私は賢治さんが“ヒドリ”と書いた以上、それを尊重すべきと考えます。先に書いたように、これは賢治さんがメモ帳に書き残していた文章です。つまり公に発表した文章ではないのですから、後世の人間が変えてしまうという行為そのものに抵抗があるのです、私としてはね。

 話しはさて置き、とても面白いエピソードを聞いた事がありますので、紹介させてもらいましょ。賢治さんが入院されていた時のお話しです。色々と食事制限があり、その時の食事の献立というのが“一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜”だったそう。ところが、賢治さんは「これではとてもお腹が減って仕方ありません。小岩井農場の牛乳が飲みたいです、バターも欲しいです。」とお医者さんや看護婦さんにお願い(はっきり言えばダダをこねた、という事ですかね?)して、とても困らせたのだそうですよ…。

 この事は、そのお医者さんのカルテにも記述されて、しっかりと残っていたそうです。私自身は見ていないのですが、地元の年輩の方々でご存知の方は結構いらっしゃるようです。やっぱり賢治さんもまだまだ若くて元気モリモリの年代だった筈ですもん、御飯いっぱい食べたくて当然ですよね。

 だから、私の想像としては、“雨ニモマケズ”をメモに書き留める時、法華経の事も考えたでしょうし、世の中全体の事、地域の事も色々と考えていたでしょう、でも、上記のお医者さん達とのやり取りも思い出しながら、苦笑いしてもいたのでは?なんて思いを馳せるのでして…。

 決して賢治さんを冒涜するつもりはありません。でも、賢治さんを語る時に暗い表現があまりに多くて…。賢治さんはユーモア精神もたっぷりあった方ですもん。もっと楽しい紹介をして欲しい私なのでした。

 

 

賢治さんの小部屋への戻り道