田野畑高校 踊組 2 菅窪鹿踊・剣舞


踊組

菅窪鹿踊・剣舞には、次のような由来がある。

二つの芸能のうち、鹿踊は、鎌倉時代の初めに畠山氏一族とともに 田野畑村に伝わった。畠山氏は、源頼朝の奥州征服後、1191(建久2)年に 武蔵国秩父庄(現在の埼玉県秩父市付近)から地頭として田野畑村大芦に入る際、 現在の茨城県にある鹿島神宮に詣で、自らの守護神「鍬形八幡大明神」を勧請し、 鹿島鹿踊を習い伝えた。鹿踊という芸能を田野畑に持ち込んだのは、おそらく 征服者として未知の土地へ入植・支配するにあたって、先住民 (=私たちの祖先) との融和を考えてのことではなかったろうか。 私たちの先祖もまた、平和的に支配者を迎える方法として、 この芸能を積極的に受け入れたものと考える。


鹿島鹿踊の由来

国土開発のため、御祭神 (尊) が霞ヶ浦のほとりに上陸したとき、 それを拒んだ先住民たちが、荒野に火を放って尊を亡き者にしようとした。 火が炎々と燃え、尊が危ないと思われたとき、突如として無数の鹿が現れ、 霞ヶ浦の湖の水に飛び込んで身をぬらしては駆け上がり、火の中を駆けめぐり 猛火を消し止め尊を安泰ならしめた。 尊はその報謝のために、鹿踊を創始したという。(『新田野畑風土記』)

1852(嘉永5)年、踊りと笛の名手である大工の常五郎によって 菅窪にこの芸能が伝えられ、現在の形となった。現在残っている鹿頭のうち6体は、 この常五郎の彫ったものである。鹿頭は野生の鹿を模したもので、他に例がない。 踊りは幕踊系で、腰に家紋の入った大口(鞍掛)を付け、本来は夜間にかがり火を焚き、 その光を金箔を張った鹿の角にきらめかせながら踊るものだが、そのような機会は 少なくなってしまった。菅窪鹿踊には 「ほらがえし」「花踊」「組花笠」「七つぎり」 「突き入れ」「膝立て」「四本かがり」「かかし」「組がかり」「雌鹿狂い」 「足上げ突き入れ」の11演目がある。

一方、剣舞は、江戸時代に全国各地で流行した「隅田川」の物語が、享和年間 (1801年頃) にその形を変えて田野畑に入ってきたものといわれる。 ちょうど常五郎が大芦から菅窪に移る前後のことで、彼の移転とともに 二つの芸能が結びついたものと思われる。剣舞は念仏剣舞であり、 盆に祖霊供養のために踊るもので、同一人が鹿踊と剣舞を早がわりで踊り分けるのが 本来の形である。剣舞にも 「大念仏」「港入り」「花笠踊」「十三拍子」「高舘入れ」 「銭太鼓踊」「万作踊」「綾踊」「二十拍子」「四十三拍子」「五十三拍子」 の11演目がある。

こうして約200年前には、菅窪鹿踊・剣舞が現在の形になったものと思われる。

菅窪鹿踊・剣舞は芸能史的に注目される芸能であるとともに、 民間の祖霊信仰を基とした芸態として地方的特色が著しいことから、 昭和63年4月5日に岩手県指定無形民俗文化財となり、地元に保存会も結成され 現在では、田野畑小学校・田野畑高校においても伝承活動に取り組んでいる。


田野畑高校   「菅窪鹿踊・剣舞 踊組」の最初に戻る   次のページ (踊組日記)
へ進む